ポロツク公(ベラルーシ語: Князі полацкія、リトアニア語: Polocko kunigaikščiai)は10世紀後半から1387年までのポロツク公国の君主の称号である(「公」は「クニャージ」からの訳出による)。ポロツク公国はキエフ・ルーシ時代にベラルーシのポロツク(ベラルーシ語ではポラツク)を首都として成立した国家であり、1392年以降はリトアニア大公国内の一行政区画となり、1504年には同国のポロスカス県となった。
(留意事項)
- 本頁の人名・地名は現地の言語の音写よりも、日本語表記として一般的と思われるものを優先して表記している。
- 各人物は、文献によっては「~世」・「~公」等の数えや通称の併記、あるいは洗礼名での表記などにより、異なる表記がなされている可能性がある。
- 各人物は、他の称号の元で異なる数えがなされる可能性がある。(例:スヴャトポルク・イジャスラヴィチはポロツク公としては一人目のスヴャトポルクであるが、キエフ大公としては「スヴャトポルク2世」となる。)
各人物の詳細は各頁を参照。
ポロツク公の一覧
ポロツク・イジャスラフ家(be)
トゥーロフ・イジャスラフ家
ポロツク・イジャスラフ家
モノマフ家(ru)
ポロツク・イジャスラフ家
スモレンスク・ムスチスラフ家
ポロツク・イジャスラフ家
リトアニア大公国・ミンダウガス家
- タウトヴィラス(在位:遅くとも1252年 - 1263年)
- コンスタンチン(在位:1264年)[2]
- イジャスラフ(在位:1264年)
- コンスタンチン(在位:1270年ごろ? - 1290年ごろ?):再任
リトアニア大公国・ゲディミナス朝
1392年以降はリトアニア大公国に編入、1504年にポロスカス県となった。
注釈
ポロツク・イジャスラフ家家系図(略図)
| | | | | | | | | ? ヴァシリコ(be) - ポロツク公・ロゴジュスク公 |
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| | | | | | | | | | | | ブリャチスラフ - ヴィテプスク公、ポロツク公 ※リューリク朝最後のポロツク公 |
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| | | | | | | | | | | | | ? コンスタンチン(be)(もしくはミンダウカス家) - ヴィテプスク公 |
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| | | | | | | | | | (数代不明) | | イジャスラフ(be) - ポロツク公 |
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| | | | | | | | ボリス(be) - ポロツク公 / 妻:1人目は不明、2人目はポメラニア公カジェミシュ2世娘・スヴャトフナ?[5] |
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出典
- ^ Ипатьевская летопись(イパーチー年代記)
- ^
Д. Н. Александров, Д. М. Володихин, Борьба за Полоцк между Литвой и Русью в XII—XVI веках
- ^ Н. М. Карамзин, История государства Российского
- ^ Коган В.М., Домбровский-Шалагин В.И. Князь Рюрик и его потомки: Историко-генеалогический свод. — С. 566—567.
- ^ Татищев В. Н. История Российская. — Т. 3. — С. 201—203.
- ^ a b Войтович Л.(2000)
参考文献