アシア・ジェバール (アラビア語 : آسيا جبار 、フランス語 : Assia Djebar 、1936年 6月30日 - 2015年 2月6日 )は、アルジェリア の小説家 、映像作家 、大学教員 。
来歴
1955年にアルジェリアの女性として初めてフランス の高等師範学校 に入学し、2005年にマグレブ 出身者として初めてアカデミー・フランセーズ の会員に選出された(400年近い歴史において5人目の女性会員)。ティパザ県 シェルシェル (フランス語版 ) で母方の部族の女性たちに聞き取りを行い、その「沈黙の声」を伝えるために映画『シェヌア山の女たちのヌーバ』を制作。以後もアルジェリアの女性たちを描いた『居室のなかのアルジェの女たち』、『墓のない女』などを発表し、ノイシュタット国際文学賞 、ドイツ書籍協会平和賞 など多くの文学賞 を受賞した。また、歴史学者 として主にマグレブ の歴史 を研究し、アルジェ大学 (フランス語版 ) 、ルイジアナ州立大学 、ニューヨーク大学 などで教鞭を執った。
生涯
背景
アシア・ジェバールは1936年6月30日、ファーティマ=ゾフラー・イマライェーヌ [ 1] (Fatima-Zohra Imalayène)としてアルジェ県 (現ブイラ県 )のアイン・ベセム (フランス語版 ) の小村ウレド・ハム(Ouled Hamou)に生まれた[ 注 1] 。母バヒア・サフラウイ(Bahia Sahraoui)の祖先は、代々アルジェリア北端のシェルシェル (フランス語版 ) (かつてマウレタニア 王国の首都であったセザレー)に住んでいた部族で、フランスによるアルジェリア侵略 ・植民地 化(1830-1847)に抵抗して、アブド・アブデルカデル とともに闘ったベルカニ族(Berkani)であり、父タハル・イマライェーヌ(Tahar Imalayène)の祖先はベルベル人 である[ 7] [ 8] 。
教育
父タハルは小学校教員 であり、自らフランス語 を習得して教えていたことから、ジェバールをフランス語の学校に入れた。彼女は他の部族 の言語も学び、マドラサ (コーラン の教えに基づくアラビア語 の学校、イスラム 学校)にも通った。こうした幅広い教育、外の世界に開かれた教育、さらなる可能性を切り開くための高等教育 を受けることになったのは父親の影響によるものであった[ 7] [ 8] 。
ブリダ県 ムザイア (フランス語版 ) の小学校 を卒業後、県都ブリダ のリセ で中等教育 を受け、古典 文学、特にギリシア 、ラテン の古典文学を学んだ[ 7] [ 9] 。バカロレア 取得後、アルジェ のリセ・ビュジョー(現リセ・エミール=アブデルカデル )の文科大学(グランゼコール )準備級 に進んだ[ 7] [ 10] 。リセの学長の勧めでフランスのグランゼコール準備級に進むことになり、1954年10月に渡仏。パリ 6区 のリセ・フェネオン (フランス語版 ) に入学した[ 7] [ 9] 。
1955年にアルジェリアの女性として初めて高等師範学校 (1881年創設の女子高等師範学校 (フランス語版 ) (ENSJF)、通称セーヴル 高等師範学校、1985年にパリ高等師範学校に合併)に入学した。アラブ の歴史・文化 を専攻したかったが、高等師範学校には関連の学部・学科がなかったため、歴史学 を専攻した[ 7] [ 11] 。
アルジェリア独立戦争
ジェバールが渡仏した直後の1954年11月1日、アルジェリア民族解放戦線 (FLN)が率いる一斉蜂起によりアルジェリア独立戦争 が勃発し、1956年5月、民族解放戦線の呼びかけに応じてアルジェリア・イスラム教徒学生総同盟(UGEMA)が講義 ・試験のボイコット による「解放のための闘争」を開始した。学業を中断してFLNの民族解放軍 (フランス語版 ) に入隊する学生もいた。彼らは「自由 なくして学位 に意味はない」、「学位を一つ余分に取ったからといって立派な死体 になれるわけではない。我々の民族 が果敢に闘っているときに、学業を続けて学位を次々と取ったところで、それが何になるのか」と訴えた[ 12] [ 13] 。アルジェリア・イスラム教徒学生総同盟は翌1957年の10月に「新国家建設」という「新たな使命」を担う者として、民族解放戦線から独立した活動を開始するためにボイコットを中止することになるが[ 13] 、この運動を支持したジェバールは、高等師範学校の試験を受けず、したがって学位を取得しなかった[ 14] 。
1958年に民族解放戦線の活動家アフメド・ウルド=ルイス(Ahmed Ould-Rouis)と結婚 し、チュニス (チュニジア )に亡命 した。彼とは1975年に離婚 し、1981年にフランス語アルジェリア文学の作家 マレク・アルーア (フランス語版 ) と再婚、2005年に離婚した[ 7] 。ウルド=ルイスはヴァリド・ガルン(Walid Garn)の筆名で活躍した作家で、ジェバールが1969年に発表した戯曲 『赤い、夜明け』の執筆に協力し[ 15] 、アルーアはジェバールが1982年に制作した映画『ゼルダ、あるいは忘却の歌』の脚本 を書いている[ 16] 。また、ジェバールとウルド=ルイスは、1965年に5歳の男児(モハメド・ガルン (フランス語版 ) )を孤児院 から引き取り、養子 にした。アルジェリア戦争中に生まれたモハメドの実の母は、彼が2000年に裁判 を起こしたときに初めてフランス軍に拷問 ・暴行 されたことを明らかにした[ 17] [ 18] 。ジェバールには息子のほか、ジャリラ・イマライェーヌ=ジェンナヌ(Jalila Imalhayène-Djennane)という娘がいる[ 19] [ 20] 。
夫とともにチュニスに逃れたジェバールは地下活動に入り、国境 近くでアルジェリア難民 と連絡を取って彼らに取材し、併せて現地の歴史・文化についても調査を行った。この調査は彼女の後の研究の基盤となる。さらにアルジェリア共産党 (フランス語版 ) 系の『エル・ムジャヒド (フランス語版 ) 』紙に寄稿していた独立運動家で精神科医 のフランツ・ファノン に連絡を取り、取材した内容を記事にして同紙に寄稿した[ 7] [ 8] 。
教育・研究
ジェバールは次にモロッコ に亡命し、1959年から1962年までラバト 文科大学でマグレブ近現代史を教える傍ら、イスラム学者のルイ・マシニョン (フランス語版 ) とジャック・ベルク (フランス語版 ) に師事し、博士論文執筆のためにマグレブの中世史と19世紀の歴史について研究し始めた[ 7] [ 11] 。教職 に就いていたうえに、すでに創作活動を開始していたため、博士 号を取得するのは作家として名を成した後の1999年のことだが、このときは「フランス語マグレブ小説 - 2つの言語、2つの文化の間で - 40年の歩み - アシア・ジェバール 1957-1997」と題する博士論文をポール・ヴァレリー=モンペリエ大学 (フランス語版 ) に提出した[ 14] [ 15] [ 21] 。
1962年のアルジェリア独立後に帰国し、同年からアルジェ大学 (フランス語版 ) で歴史学を教え、新聞 ・雑誌 にも寄稿した。だが、アラブ化政策により高等教育の社会科学 の講義はアラビア語で行うことが義務付けられたため[ 7] 、いったん教職を離れ、1974年から1980年まで再びアルジェ大学で今度は文学 (フランス語圏文学)と映画 の講座を担当した[ 11] 。
1974年から映像作家として活躍し始め、1980年以降は執筆活動に専念(後述)。再び教職に就くのは1995年以上のことで、同年から2001年まではルイジアナ州立大学 (バトンルージュ )、2001年からはニューヨーク大学 の教授を務めた。ルイジアナ州 では、州立フランス・フランス語圏研究センターの所長を兼任した[ 11] 。
作家としての活動
アルジェリアのサガン
ジェバールが処女作『渇き』を発表したのは1957年、まだ高等師範学校の学生であった20歳のときのことである。彼女はこのとき初めてアシア・ジェバールという筆名を使った。「アシア(Assia)」は「慰め(consolation)」または「慰める女性(celle qui console)」、「ジェバール(Djebar)」は「誇り(fierté)」[ 14] 、または「非妥協、一徹さ(intransigeance)」の意味である[ 7] 。
『渇き』は奔放な若いアルジェリア女性ナディアを主人公とする小説であり、3年前(1954年)に発表されて大きな反響を呼んだフランソワーズ・サガン の『悲しみよこんにちは 』の主人公セシルの生き方に共通するところがあることから、ジェバールは「北アフリカのフランソワーズ・サガン」[ 8] [ 22] 、「アルジェリアのサガン」と称されることになった[ 1] [ 23] 。『渇き』は好評を博し、早くも翌1958年に英訳が『悪戯(The Mischief )』として刊行されたが[ 24] 、作品の文学的な価値とは別に、アルジェリア戦争のさなかにこのような小説を書いたことに対する道徳的な観点からの批判もあった[ 25] 。実際、フランス語アルジェリア作家の第一世代を代表するムールード・フェラウン の『貧者の息子』(1950年刊)、ムールード・マムリ の『忘れられた丘』(1952年刊)、ムハンマド・ディブ の『大きな家』(1952年刊)、カテブ・ヤシーン の『ネジュマ』(1956年刊)はすべて植民地主義 の問題を描いた作品であった[ 25] 。
ジェバールは1958年に同じくアルジェリアの若い女性たちを描いた『待ちきれない者たち』、アルジェリア独立直後の1962年に『新世界の子どもたち』を発表した。『新世界の子どもたち』はこの続編とされる1967年発表の『うぶな雲雀たち』とともにアルジェリア独立に対する女性たちの貢献、そしてこの過程における女性解放運動 の起こりを描いた作品である[ 15] 。
アルジェの女たち
ドラクロワの『アルジェの女たち』- ジェバールの『居室のなかのアルジェの女たち』の表紙に掲載された[ 26] 。
ジェバールは研究・教育活動との兼ね合い、また映画制作とそのための調査を始めたこともあって、この後1980年まで13年間小説を発表していない。1980年に発表した短編集『居室 のなかのアルジェの女たち』は、ドラクロワ の『アルジェの女たち (Femmes d'Alger dans leur appartement )』(1834年)と同一のタイトルであり、この作品とこれに触発されてピカソ が1954年から55年にかけて制作した『アルジェの女たち (英語版 ) (Les Femmes d'Alger )』に描かれる女性たち[ 27] [ 23] 、しばしばオリエンタリズム と批判されるこれらの女性たちの描写について彼女なりの解釈を試みた、評論と虚構の交錯する作品であり、文学と絵画 (言葉とイメージ )の対話 である[ 14] [ 28] 。本書にはピカソの『泣く女 』との「対話」である「泣く女」と題する短編も含まれる[ 29] 。ジェバールの著書は(初期のものを除いて)その多くがアルバン・ミシェル出版社 (フランス語版 ) から刊行されているが、唯一この『居室のなかのアルジェの女たち』だけは、フェミニスト のアントワネット・フーク がフランス女性解放運動 (MLF)の一環として1972年に創刊したデ・ファム出版社 (フランス語版 ) (女性出版社)から刊行された[ 26] 。
シェヌア山の女たち
古代ローマの遺跡が残る古都セザレー(シェルシェル)
セザレーの古代ローマの遺跡
ジェバールの初期の小説と、13年のブランクを経て発表された『居室のなかのアルジェの女たち』以降の作品は題材も作風もかなり異なる。彼女はこの間に母方のベルカニ族の土地シェルシェル(現ティパザ県内)で長期にわたって調査を行った。アルジェリア北端のシェルシェルは、北は地中海 に面し、南はシェヌア (フランス語版 ) 山とダフラ (フランス語版 ) 山地に取り囲まれている。彼女はこの地で農業を営む女性たちに植民地時代・アルジェリア戦争中の体験について聞き取りを行い、これに基づいて『シェヌア山の女たちのヌーバ』(1978年)、『ゼルダ、あるいは忘却の歌』(1982年)の2本の映画を制作した。いずれも記録映画 的なフィクション である[ 16] [ 30] 。『シェヌア山の女たちのヌーバ』の「ヌーバ (フランス語版 ) 」は、アラブ・アンダルシア音楽 (フランス語版 ) (マグレブ諸国で誕生し、アラブ民族 がイベリア半島 (アンダルシア )を支配していた9世紀から12世紀にかけて発展した古典音楽)の一形式で、楽器 と歌 の組曲 であり[ 31] 、『ゼルダ、あるいは忘却の歌』の「ゼルダ(zerda)」は、土地の聖人 を讃える儀式(祭り)である[ 32] 。いずれもアラビア語とフランス語で制作されたテレビ映画 で、最初は国営テレビ局アルジェリア・テレビ (フランス語版 ) でそれぞれ1978年と1982年に放映された[ 16] [ 30] 。『シェヌア山の女たちのヌーバ』では、1913年にアルジェリア北東部のオーレス (フランス語版 ) 山地で民謡 を収集したバルトーク への共感から、彼の音楽を使っている[ 33] 。『シェヌア山の女たちのヌーバ』はさらにチュニス県 のカルタージュ で上映され、翌1979年にヴェネツィア・ビエンナーレ で国際批評家賞を受賞、『ゼルダ、あるいは忘却の歌』は1983年にベルリン国際映画祭で特別賞の「歴史映画最優秀賞」を受賞した(受賞・栄誉参照)。
ジェバールは、「シェヌア山の女たち」の声を「殺すのではなく、目覚めさせ」、「亡くなった多くの女たちを蘇らせ」、「強いられた沈黙の声、ヴェールに覆われ、押し殺された声を解放するために」これらの映画や『居室のなかのアルジェの女たち』以降の作品を書いたと語っている[ 14] 。
2002年に発表した小説『墓のない女』は、映像作家である語り手が1976年に映画制作のためにシェルシェルを訪れ、この地に暮らした一人の女性ズリハの情熱的・悲劇的な人生について知り、女性たちへの聞き取りに基づいてズリハの生涯を描くという設定であり、上記の調査、聞き取り、映画制作の過程を反映するもう一つの物語である[ 34] 。
歴史上の女性を主人公にしたフィクション
一方でこれまでの歴史研究に基づく小説として、フランスによるアルジェリア占領から独立までをたどった『愛、ファンタジア』[ 1] (1985年、歴史を喚起する力強い作品としてフランス・アラブ友好賞 (フランス語版 ) 受賞)、アルジェリアにおける男性支配やハレム の習慣を描いた『影スルタン 妃』(1987年)[ 35] 、預言者ムハンマド がメディナ で死去した後のアイシャ らの妻たち、ベドウィン 諸部族の王妃、女預言者、女戦士、ムハンマドの娘ファーティマ などの女性たちを歴史的事実と虚構を交えながら描いた『メディナから遠く離れて』(1991年)[ 36] などを発表した。
また、同じ題材により、2000年にはロッテルダム 劇場(オランダ )からの依頼で3幕の歌劇 『アイシャ とメディナの女たち』を執筆した[ 11] 。
暗黒の10年の女たち
1980年まではアルジェ大学で教鞭を執りながらシェルシェルで調査を行い、映画を制作するという多岐にわたる活動を行っていたジェバールだが、アラブ化・イスラム化が進むなか、次第に活動が制限されたため、1980年にアルジェ大学を辞任してパリ郊外に居を構え、以後、専らフランス語での執筆(小説、随筆 、戯曲、評論 )に専念した[ 11] 。侵略と植民地支配からようやく解放されたアルジェリアが今度はイスラム主義 の台頭によって1990年代に暗黒の10年(アルジェリア内戦 )に突入すると、ジェバールは再び、暴力 や死 に直面する女性たちの姿を通してアルジェリアの現実を描いた『アルジェリアの白』(1996年)、『オラン 、死んだ言葉』(1997年)のような小説に取り組み始めた[ 37] 。
文化の境界を越えて
ジェバールは創作活動、教育・研究活動だけでなく、自作の朗読会や講演会でドイツ 、イタリア 、イギリス 、アメリカ などを訪れ、1983年から1989年までの6年間は、ミッテラン 政権下で経済・財政・予算大臣、国防大臣、首相 を歴任したピエール・ベレゴヴォワ からの依頼で、社会行動基金(FAS)理事会にアルジェリア移民 代表として参加した[ 7] [ 11] 。
2005年6月16日にアカデミー・フランセーズの会員に選出された。マルグリット・ユルスナール が1980年に女性で初めてアカデミー・フランセーズの会員に選出されてから25年目にして5人目、すなわち、400年近いアカデミーの歴史において5人目の女性会員である(2018年までに9人の女性が選出された)[ 38] 。
ジェバールは、アカデミー・フランセーズ会員就任式の演説で、「フランス帝国 時代の北アフリカ は、イギリス、ポルトガル 、ベルギー の植民地だったアフリカの他の地域と同様に、一世紀半にわたって、その自然の富を奪われ、社会的基盤を破壊された」、そしてアルジェリアでは、「そのアイデンティティに関わる二つの言語、長い歴史をもつ世俗のベルベル語 とアラビア語が教育から排除された」、エメ・セゼール はすでに1950年に『植民地主義論』において、「アフリカ やアジア での植民地戦争がいかにヨーロッパ を「非文明化」し、「野蛮化」したか」を示していたことを指摘し、最後に、「私は(ダンテ の『神曲 』の)至高天(エンピレオ)でフランソワ・ラブレー とイブン・スィーナー が対話している様子を思い描いている」と締めくくった[ 33] [ 39] 。
2015年2月6日、パリにて死去、享年78歳。ティパザ県のシェルシェル墓地に埋葬された[ 40] [ 41] 。
著書
小説
『渇き』(La Soif )1957年
『待ちきれない者たち』(Les Impatients )1958年
『新世界の子どもたち』(Les Enfants du Nouveau Monde )1962年
『うぶな雲雀たち』(Les Alouettes naïves )1967年
『居室のなかのアルジェの女たち』(Femmes d'Alger dans leur appartement )1980年
「泣く女(La femme qui pleure )」「流謫の生活などというものはない(Il n’y a pas d’exil )」「かつての生活へのノスタルジー(Nostalgie de la Horde )」福田育弘訳、『群像 』1996年6月号(講談社 )所収
『愛、ファンタジア 』(L'Amour, la fantasia )1985年
『影スルタン妃』(Ombre sultane )1987年
『メディナから遠く離れて』(Loin de Médine )1991年
『アルジェリアのある夏の記録』(Chronique d'un été algérien : ici et là-bas )1993年
『広大なり、牢獄は』(Vaste est la prison )1995年
『アルジェリアの白』(Le Blanc de l'Algérie )1996年
『オラン、死んだ言葉』(Oran, langue morte )1997年
『ストラスブールの夜』(Les Nuits de Strasbourg )1997年
『わたしに絶えず付きまとうあの声たち』(Ces voix qui m'assiègent... en marge de ma francophonie )1999年
『墓のない女 』(La Femme sans sépulture )2002年
『フランス語の消滅』(La Disparition de la langue française )2003年
『父の家のどこにも居場所がない』(Nulle part dans la maison de mon père )2007年
戯曲
『赤い、夜明け』(Rouge l'aube )1969年
『風と嵐のなかのイスマエル の娘たち』(Filles d'Ismaël dans le vent et la tempête )2000年
『アイシャ とメディナの女たち』(Aicha et les femmes de Médine )2000年
詩集
『幸福なアルジェリアのための詩集』(Poèmes pour l'Algérie heureuse )1969年
映画
『シェヌア山の女たちのヌーバ』(La Nouba des femmes du Mont Chenoua )1978年
『ゼルダ、あるいは忘却の歌』(La Zerda ou les chants de l'oubli )1982年
受賞・栄誉
特記する場合を除いて出典はアカデミー・フランセーズ[ 11] 。併せて、持田明子「マグレブを代表する女性作家」参照[ 34] 。
文学賞
勲章
名誉教授
学会
脚注
注釈
^ アシア・ジェバールの出生地は多くの文献においてティパザ県シェルシェルとされているが、2005年6月16日に彼女がアカデミー・フランセーズの会員に選出された後、アルジェリアのフランス語新聞『リベルテ (フランス語版 ) 』紙に掲載された彼女の叔父モハメド・サフラウイ・タハル(Mohamed Sahraoui Tahar)に取材した記事で、彼は「書籍や教科書 、すべての刊行物に書かれている」、アシア・ジェバールはシェルシェル出身という情報を否定し、ブイラ県アイン・ベセムの小村ウレド・ハム(Ouled Hamou)で父親が小学校教員 をしているときに生まれたと語った[ 2] [ 3] 。これ以後、他の文献でも、ウレド・ハムとするものが散見され[ 4] [ 5] 、パリ第8大学 のフランス語圏文学(アルジェリア文学)の教授ジネブ・アリ=ベナリは、2019年に発表した著書『アシア・ジェバール - 声と身体の間で書く、自己の歴史、家族・親族の歴史』において、同じく「当時はアルジェ県の」ウレド・ハム出身としている[ 6] 。後述のように、アイン・ベセムから約100キロのところにあるシェルシェル(旧セザレー)は母方の部族が代々住んでいた土地としてジェバールが深い愛着を感じていた土地であり、後にこの地の女性たちに取材して映画を制作することになる。また、彼女の墓もこの地にある。
出典
^ a b c “アシア・ジェバール ”. www.msz.co.jp . みすず書房 . 2020年6月6日 閲覧。
^ Karim Kebir Cherchell (2005年10月13日). “Assia Djebar : les chemins de la gloire ” (フランス語). Djazairess . 2020年6月6日 閲覧。
^ “Assia Djebar : les chemins de la gloire: Toute l'actualité sur liberte-algerie.com ” (フランス語). liberte-algerie.com . Liberté. Algérie. 2020年6月6日 閲覧。
^ La Rédaction (2017年6月30日). “Google rend hommage à Assia Djebar ” (フランス語). Live News Algérie . 2020年6月6日 閲覧。
^ “Assia Djebar : une nouvelle bibliothèque à Paris ” (フランス語). bibliotheques.paris.fr . Bibliothèques de la Ville de Paris. 2020年6月6日 閲覧。
^ Zineb Ali-Benali (2019) (フランス語). Assia Djebar. Écrire, entre voix et corps. Histoire de soi, histoire des siens . Casablanca: Centre culturel du livre. p. 10. "Fatma-Zohra Imalayène naît dans le 30 juin 1936, dans un petit village, Ouled Hamou, du département d'Alger de l'époque, où son père était enseignant."
^ a b c d e f g h i j k l Zineb Ali-Benali (2019) (フランス語). Assia Djebar. Écrire, entre voix et corps. Histoire de soi, histoire des siens . Casablanca: Centre culturel du livre
^ a b c d e Fawzia Zouari (2005年6月20日). “Assia Djebar ” (フランス語). JeuneAfrique.com . Jeune Afrique. 2020年6月6日 閲覧。
^ a b Alain Nicolas (2015年2月9日). “Assia Djebar, l’écriture comme urgence et comme libération ” (フランス語). L'Humanité . 2020年6月6日 閲覧。
^ Alison Rice. “ASSIA DJEBAR ” (フランス語). Encyclopædia Universalis . 2020年6月6日 閲覧。
^ a b c d e f g h “Assia DJEBAR ” (フランス語). www.academie-francaise.fr . Académie française. 2020年6月6日 閲覧。
^ Lyes M. (2020年5月20日). “Grève des étudiants du 19 Mai 1956 : Le rôle déterminant de l’élite algérienne” (フランス語). El Watan . https://www.elwatan.com/pages-hebdo/etudiant/greve-des-etudiants-du-19-mai-1956-le-role-determinant-de-lelite-algerienne-20-05-2020 2020年6月6日 閲覧。
^ a b “L'UNION GÉNÉRALE DES ÉTUDIANTS MUSULMANS ALGÉRIENS RAPPORTE SON ORDRE DE GRÈVE DES COURS mais continue à boycotter l'université " colonialiste " d'Alger” (フランス語). Le Monde.fr . (1957年10月16日). https://www.lemonde.fr/archives/article/1957/10/16/l-union-generale-des-etudiants-musulmans-algeriens-rapporte-son-ordre-de-greve-des-cours-mais-continue-a-boycotter-l-universite-colonialiste-d-alger_2340193_1819218.html 2020年6月6日 閲覧。
^ a b c d e Christiane Klapisch-Zuber (2015-06-10). “Hommage à Assia Djebar (1936-2015)” (フランス語). Clio. Femmes, Genre, Histoire (41): 239–241. doi :10.4000/clio.12446 . ISSN 1252-7017 . http://journals.openedition.org/clio/12446 .
^ a b c The Editors of Encyclopaedia Britannica. “Assia Djebar - Algerian writer and filmmaker ” (英語). Encyclopedia Britannica . 2020年6月6日 閲覧。
^ a b c “Zerda ou les chants de l’oubli (La) - Maghreb des films ” (フランス語). www.maghrebdesfilms.fr . Le Maghreb des Films. 2020年6月6日 閲覧。
^ “Assia Djebar - EXCLUSIF son fils adoptif raconte sa vie - histoire boulversante ” (フランス語). France 2 / YouTube . 2020年6月6日 閲覧。
^ Fadéla Hebbadj (2016年8月12日). “Garne Kheira, l’héroïne de la guerre d’Algérie, est morte ce 9 août 2016 ” (フランス語). Club de Mediapart . Mediapart. 2020年6月6日 閲覧。
^ “Femmes d’Alger dans leur appartementd’Assia Djebar : Premiere traduction en arabe ”. www.elwatan.com . El Watan (2017年10月31日). 2020年6月6日 閲覧。
^ Hamadiche L. (2015年2月8日). “L'académicienne Assia Djebar est décédée : La littérature algérienne perd sa figure emblématique ” (フランス語). Djazairess . 2020年6月6日 閲覧。
^ “Le Roman maghrébin francophone. Entre les langues, entre les cultures: quarante ans d'un parcours: Assia Djebar, 1957-1997 - Thèses - Limag ” (フランス語). www.limag.com . Littératures du Maghreb (LIMAG). 2020年6月6日 閲覧。
^ “TELEVISION DOCUMENTAIRE Assia Djebar, entre ombre et soleil Planète, 18 h 45.” (フランス語). Le Monde.fr . (1994年10月2日). https://www.lemonde.fr/archives/article/1994/10/02/television-documentaire-assia-djebar-entre-ombre-et-soleil-planete-18-h-45_3845291_1819218.html 2020年6月6日 閲覧。
^ a b 武内旬子「アルジェの女たちはどこにいるのか - アシア・ジェバール『アルジェの女たち』を読む 」『神戸外大論叢』第55巻第5号、神戸市外国語大学 研究会、2004年10月31日、81-104頁、ISSN 02897954 。
^ Jones, Jean Campbell (1958年10月12日). “Between Two Worlds; THE MISCHIEF. By Assia Djebar. Translated by Frances Frenaye from the French "La Soif." 113 pp. New York: Simon and Schuster. $2.50.” (英語). The New York Times . ISSN 0362-4331 . https://www.nytimes.com/1958/10/12/archives/between-two-worlds-the-mischief-by-assia-djebar-translated-by.html 2020年6月6日 閲覧。
^ a b 武内旬子「小説を書く権利 - アシア・ジェバール初期小説を読む 」『神戸外大論叢』第54巻第1号、神戸市外国語大学研究会、2003年9月30日、61-89頁、ISSN 02897954 。
^ a b “Femmes d'Alger ” (フランス語). Des femmes . 2020年6月6日 閲覧。 “Il faut aussi lire le texte final où Assia Djebar analyse ce « regard interdit », celui posé en 1832 par Delacroix sur Femmes d’Alger, celui que Picasso a libéré en 1955. Parabole d’une « libération concrète et quotidienne des femmes » (Tahar Ben Jelloun, Le Monde , 8 août 1980).”
^ “Picasso/Delacroix : Femmes d’Alger ” (フランス語). Musée du Louvre (2008年). 2020年6月6日 閲覧。
^ Farah Aïcha Gharbi (2004). “Femmes d’Alger dans leur appartement d’Assia Djebar : une rencontre entre la peinture et l’écriture” (フランス語). Études françaises 40 (1): 63–80. ISSN 0014-2085 . https://doi.org/10.7202/008476ar .
^ Farah Aïcha Gharbi (2007-12-01). “« La femme qui pleure » : la nouvelle d’Assia Djebar et le tableau de Picasso” (フランス語). Présence Francophone: Revue internationale de langue et de littérature 69 (1). ISSN 0048-5195 . https://crossworks.holycross.edu/pf/vol69/iss1/11 .
^ a b “Nouba des femmes du mont Chenoua (La) - Maghreb des films ” (フランス語). www.maghrebdesfilms.fr . Le Maghreb des Films. 2020年6月6日 閲覧。
^ 松田嘉子. “文化 - チュニジアの音楽 ”. 在チュニジア共和国大使館 . 2020年6月6日 閲覧。
^ “Définition de zerda ” (フランス語). www.universalis.fr . Encyclopædia Universalis. 2020年6月6日 閲覧。
^ a b Assia Djebar (2006年6月22日). “Discours de réception, et réponse de Pierre-Jean Rémy ”. www.academie-francaise.fr . Académie française. 2020年6月6日 閲覧。
^ a b 持田明子 (2011年10月31日). “マグレブを代表する女性作家 -『機』2011年11月号 ”. 藤原書店. 2020年6月6日 閲覧。
^ Jean Déjeux (1987). “Ombre sultane par Assia Djebar, 1987” (フランス語). Hommes & Migrations 1103 (1): 14–15. https://www.persee.fr/doc/homig_1142-852x_1987_num_1103_1_1085_t1_0014_0000_1 .
^ “Assia Djebar. Loin de Médine ” (フランス語). Albin Michel. 2020年6月6日 閲覧。
^ 武内旬子「死を書く方法としての虚構 - アシア・ジェバール『オラン、死んだ言葉』 」『神戸外大論叢』第56巻第6号、神戸市外国語大学研究会、2005年11月30日、47-70頁、ISSN 02897954 。
^ “Les femmes à l’Académie : 9 membres ” (フランス語). www.academie-francaise.fr . Académie française. 2020年6月6日 閲覧。
^ “アシア・ジェバールの訃報 ”. 日本フランス語圏文学研究会ブログ (2015年2月23日). 2020年6月6日 閲覧。
^ “Inhumation hier de la romancière algérienne : Cherchell fière d’accueillir sa fille Assia Djebar ” (フランス語). www.elwatan.com . El Watan. 2020年6月6日 閲覧。
^ “Assia Djebar inhumée au cimetière de Cherchell à Tipasa ” (フランス語). Djazairess . 2020年6月6日 閲覧。
^ “La Zerda ou les chants de l’oubli (Zerda or the Songs of Forgetting) ” (英語). Columbia University. The Miriam and Ira D. Wallach Art Gallery . Columbia University. 2020年6月6日 閲覧。
^ Vincy Thomas (2015年2月7日). “Décès de l'académicienne Assia Djebar ” (フランス語). Livres Hebdo . 2020年6月3日 閲覧。
^ “Der LiBeraturpreis 1988 bis 2021 ”. LitProm. 2025年1月22日 閲覧。
^ Gingras, Francis (2014). “Les prix de la revue Études françaises : rétrospective” (フランス語). Études françaises 50 (1-2): 7–19. ISSN 0014-2085 . https://doi.org/10.7202/1026223ar .
参考文献
Zineb Ali-Benali, Assia Djebar. Écrire, entre voix et corps. Histoire de soi, histoire des siens , Centre culturel du livre, Casablanca, 2019
関連項目
外部リンク