ちょうちょう (唱歌)『ちょうちょう』は、欧米各国に伝わる童謡に日本で独自の歌詞を付けた唱歌。 原曲かつてはスペイン民謡が原曲と言われていたが、現在ではドイツの古い童謡「Hänschen klein」(訳:「幼いハンス」)という曲が原曲とされている[1]。 これはドイツ東部・ドレスデンの教師だったフランツ・ヴィーデマン(Franz Wiedemann, 1821年 - 1882年)が作詞したものである。この歌詞には、子供たちに別離・出発・悲しみからの回復を経験させるという教育上の目的があった。1番で幼い「ハンスちゃん」(Hänschen)が旅に出て母親が見送り、2番で7年の放浪と遍歴の末に「ハンスちゃん」は日焼けした大人の「ハンス」(Hans)へと変わり、3番ですっかり大きくなったハンスが故郷に戻り、あまりの変わり様にだれにもハンスだと分かってもらえないが、再会した母親はすぐにハンスだと分かってくれた、という内容であった。そのモチーフは、ヨハン・ネポムク・フォーゲル(Johann Nepomuk Vogl, 1802年 - 1866年)の書いた、旅する男がついに母親のもとへと帰ってくるという詩『Das Erkennen』と共通するところがある[2]。 ヴィーデマンはこの詩を、狩りの歌として知られていた『Fahret hin fahret hin』のメロディーにあてはめた[3]。この曲は、ヨハン・グスターフ・ゴットリープ・ビューシンク (de) とフリードリヒ・ハインリヒ・フォン=デア=ハーゲン (de) により1807年に出版されているが、その起源はより古く、成立は18世紀初頭よりも前と考えられている[4]。
「Hänschen klein」は、米国では「Lightly Row」という表題でドイツの歌詞とは無関係にボートを漕ぐ様子を歌った曲になり、19世紀前半には広く知られる童謡となっていた[1]。1875年(明治8年)から1878年(明治11年)まで米国へ留学した教育学者・伊沢修二(1851年 - 1917年)がブリッジウォーター師範学校でルーサー・メーソン(1818年 - 1896年)よりこの曲を教わり、日本へ紹介したのではないかと推測されている[5]。 「Lightly Row」に対しては、小林愛雄(1881年 - 1945年)が「軽く漕げ」の表題で英語の歌詞を日本語訳した詞が存在する[6]。
唱歌「蝶々」伊沢が紹介した曲には野村秋足(1819年 - 1902年)が独自に歌詞を付け、1881年に文部省が発行した『小学唱歌集』初編に「第十七 蝶々」の表題で掲載された[7]。ただし、この歌詞と似た詞の童謡[8]や清元[9]は江戸時代から全国各地で知られており、野村も現在の愛知県岡崎市一帯で歌われていた童歌の詞を改作して「Lightly Row」の曲に当てたとされている[10]。磯田光一は『鹿鳴館の系譜』にて香川景樹の旧派和歌からの影響を指摘している。また、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)の音楽教師で「蛍の光」(原曲はスコットランド民謡)などで知られる稲垣千頴が2番を作詞しており、1896年(明治29年)に発行された『新編 教育唱歌集』では3・4番も追加されているが3番以降については作詞者不明となっている。 なお、曲については伊沢が「原曲はスペイン民謡」として紹介したことから長らく伊沢の紹介に疑義が挟まれることは無く、近年まで多くの文献に「作曲:スペイン民謡」と掲載されていた[1][10]。
1947年の改作現在、広く知られているバージョンは太平洋戦争終結後の1947年(昭和22年)に文部省が発行した『一ねんせいのおんがく』において野村が作詞した原曲を改作すると共に2番以下を廃止したものである。この改作に関しては「栄ゆる御代に」はGHQが教育現場からの排除を主張していた皇室賛美と取られるフレーズであること、2番以下の廃止は表題の「ちょうちょう」と無関係な鳥や昆虫に関する描写を排除して曲の主題を明確にしたものと解されている。
編曲
各国語版この原曲は様々な国や地域の言葉に比較的自由に翻訳されていて、フランス・南アフリカ・イスラエルなどでは原曲のある「幼いハンス」であるが、英語圏ではマザー・グースにある「ゆっくり漕いで」(Lightly Row)、インドネシア(スンダ語)では「私の人形」、日本・朝鮮・台湾では「ちょうちょう」などとして歌われている[12]。 脚注
関連項目
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