V・ラマスワミ・エイヤールV・ラマスワミ・エイヤール(英: V. Ramaswamy Aiyer、タミル語: வி. ராமசுவாமி ஐயர்、1871年8月4日 – 1936年1月22日 )は、マドラス地方の公務員。 1907年、友人グループとともにインド数学会を創立し、1910年まで初代秘書を、1926年から1930年まで会長を務めた[1]。 生い立ちと功績1871年8月4日、コーヤンブットゥール区のサシヤマンガラムの母方の祖母の家で生まれた。コーヤンブットゥールの大学でF.A.、マドラス管区大学でB.A.及びM.A.を獲得した。学生時代、エイヤールはクリケットと体操を興じた。管区大学在学中、Educational Times などの数学雑誌に頻繁に寄稿した。Educational Times の編集者はエイヤールを大学教授だと誤解して"Professor Ramaswami"(ラマスワミ教授)と呼んでいた。エイヤールは生涯の間この非公式な称号で呼ばれた。M.A.の学位を取得した後、短期間の間ベンガルール中央大学で働き、マイスール・マハーラージャの大学のウィアー(Weir)学長の数学科修士課程の仕事の補佐を任された。1898年、マドラスの公務員に就職した[2]。 試用期間の後、1901年にDeputy Collector に指名された。1926年、公務員職を辞めた。1936年1月22日、 脳内出血で没した[2]。 インド数学会1906年、グーティーでDeputy Collectorを勤めていたとき、エイヤールは数学の研究施設の確保のため Analytic Club と呼ばれた協会を設立した。1907年4月4日、彼はマドラスの新聞にインド数学会の設立を報道した。設立当初の会員は20人であった。会の本拠地にはプネーが選ばれた。エイヤールは秘書として活躍し、学会雑誌と図書館を創設した。 1910年学会委員会を去ったものの、学会の活動には参加し続けた。1926年、学会長に選ばれ、1930年まで職務を全うした[2]。 ラマヌジャンの後援1910年、ティルコイルアーで公務員職を勤めていた際、エイヤールはシュリニヴァーサ・ラマヌジャンに、後援者になってオフィスに雇うように頼まれた。ラマヌジャンの唯一の判断材料は彼のNotebooksであった。これは現在マドラス大学図書館に保存されている。Notebooksの内容を調べると、エイヤールはその並はずれた結果に心を打たれ、ラマヌジャンをマドラスの数学仲間に紹介した[2]。ラマヌジャンの早期の作品は、エイヤールの助けもあって、インド数学会の雑誌 Journal of Indian Mathematical Society に収められている[3]。 エイヤールの定理エイヤールは初等幾何学の分野でも多くの結果を残している[2]。次の定理はエイヤールの定理(Aiyar's theorem)と呼ばれる[4][5][6]。
出典
外部リンク
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