305便はワシントンD.C.からシアトルへ向かう空路で、ミネアポリス、グレートフォールズ(英語版)、ミズーラ(英語版)、スポケーン、ポートランドを経由していた[15]。太平洋標準時午後2時50分、飛行機は予定通りポートランドを飛び立った。飛行機には定員の3分の1程度が搭乗していた。離陸してまもなく、クーパーは自分の最も近くにいた客室乗務員であるフローレンス・シャフナー (英: Florence Schaffner) にメモを渡した。シャフナーは機体尾部のエアステア (昇降用階段) のドアに取り付けられた補助席に座っていた[3]。シャフナーは、メモは孤独なサラリーマンが自分の電話番号を綴ったものだろうと考え、メモを開かずにハンドバッグに入れた[16]。クーパーはシャフナーの方に体を傾けて、次の言葉を囁いた。"Miss, you'd better look at that note. I have a bomb."[17] (「君、そのメモを読むのが身のためだ。俺は爆弾を持っている」)
メモはフェルトペンで丁寧に書かれており、全て大文字だった[18]。メモはクーパーが返却を要求してきたため、実際にどう書いてあったかは不明である[19][20]。しかし、シャフナーの記憶によれば、ブリーフケースの中に爆弾が入っているというようなことが書いてあったという。シャフナーがメモを読むと、クーパーはシャフナーに自分の隣に座るように言った[21]。シャフナーはその言葉に従い、それから爆弾を見せるように冷静に頼んだ。クーパーはブリーフケースを開けて、中身を一目見るだけの時間を与えた。中には赤い円筒形の物体が8本入っていた[注釈 1]。4本の上に別の4本が置かれている状態だった。物体には赤い絶縁材で覆われたワイヤーと、大きな円筒形の電池が付いていた[23]。(しかしこれらの爆弾は偽物だったという説もある。)クーパーはブリーフケースを閉じると、自分の要求を伝えた。現金20万ドル ("negotiable American currency"、「交換可能なアメリカの通貨」で払うように指示した)[注釈 2]、パラシュート4つ (2つはメイン、残りの2つは予備)、飛行機が到着したときに燃料を補給するための給油車をシアトルで待機させることである[25]。シャフナーはクーパーの指示をコックピットにいる操縦士に伝えた。シャフナーが戻ってくると、クーパーは黒いサングラスを身につけていた[3]。
操縦士のウィリアム・スコット (英: William Scott) はシアトル・タコマ国際空港の航空管制官に連絡をとり、管制官は地元警察とFBIに通報した。他の36名の乗客には、シアトルへの到着が機械の軽度のトラブルにより遅れているという偽の情報が与えられた[26]。ノースウエスト・オリエント航空社長のドナルド・ニューロプ (英: Donald Nyrop) は身代金の支払いを承認し、全従業員にハイジャック犯の要求に十分に協力するように命じた[27]。飛行機はピュージェット湾上空を約2時間旋回し、その間にシアトル警察(英語版)とFBIがパラシュートと身代金を集め、救急隊員を動員した[3]。
客室乗務員のティナ・マックロー (英: Tina Mucklow) によると、クーパーは地元の地理に詳しそうだったという。飛行機がタコマ上空を飛んでいたとき、クーパーは下はタコマのようだというような発言をした。クーパーはマッコード空軍基地(英語版)はシアトル・タコマ空軍基地から (当時は) 車でほんの20分の距離であるとも発言したが、これも正しかった。シャフナーによると、クーパーは穏やかで、礼儀正しく、上品な言葉遣いで、当時一般的に認知されていたハイジャック犯のステレオタイプ (激高した冷酷な犯罪者、キューバへ向かおうとする反体制派) とは全く違っていたという[3]。マックローは、クーパーは神経質ではなかったと述べた。感じの良い人物に見え、冷酷な態度をとったり不快な言動をしたりすることもなく、常に思慮深くて穏やかだったと語った[3]。クーパーは2杯目のバーボンのソーダ割りを頼み、飲み物の代金を支払い、マックローに釣銭を与えようとした[3]。シアトルに留まっていたときには乗員のための食事を要求した[28]。
太平洋標準時午後5時24分、クーパーは自分の要求が叶えられたことを通知された。午後5時39分、飛行機はシアトル・タコマ空港で着陸した[31]。日没から1時間以上経過した頃、クーパーはスコット操縦士に飛行機をタキシングしてエプロンの中で照明が明るく孤立した区画へ移動させるように指示し、警察の狙撃手の妨害のために客室内の窓掛けを全て閉めさせた[32]。ノースウエスト・オリエント航空のシアトル運用管理者のアル・リー (英: Al Lee) は要求の物品を持って航空機の方へ向かった。リーは航空会社の制服から警察官と勘違いされないように普段着を着ていた。リーは身代金の詰まったナップザックとパラシュートを機体尾部のエアステアからマックローに届けた。身代金とパラシュートの受け渡しが完了すると、クーパーは乗客全員とシャフナー、主任客室乗務員のアリス・ハンコック (英: Alice Hancock) に飛行機から出るように命令した[33]。
飛行機に燃料を補給する間、クーパーはコックピットにいる乗員に対して自身の飛行計画のあらましを説明した。南東へ進路を取って、最高高度1万フィート (約3千メートル)、失速しないで済む最低速度、つまりは約100ノット (時速約190キロメートル) でメキシコシティの方向へ向かうというものだった。クーパーはさらに、ランディング・ギアは離着陸時の位置のままにすること、フラップの角度を15度に下げること、客室の与圧はかけないでいることといった詳細な指示も与えた[34]。フラップとは主翼の後縁に備わる高揚力装置である。フラップを出すことで、低速飛行時に翼で発生する揚力を大幅に増やすことができるが、抗力の増加も招く[35]。副操縦士のウィリアム・ラタクザック (英: William Rataczak) はクーパーに、指定の条件での航続距離は約1千マイル (約1,600キロメートル) までしかないと伝えた。この条件ではメキシコに辿り着く前に2度目の燃料補給が必要になる。クーパーと乗員たちは話し合い、ネバダ州リノで燃料補給することで合意した[36]。機体後方の出口が開いてエアステアが展開されると、クーパーは操縦士に離陸を指示した。ノースウエスト・オリエント航空本社は機体尾部のエアステアが展開されたまま離陸するのは危険であるとして異議を唱えた。クーパーは実際には安全であると反論したが、この件で言い争おうとはしなかった。離陸した後にエアステアを展開するつもりだったのである[37]。
午後7時40分ごろ、ボーイング727はクーパー、スコット操縦士、マックロー客室乗務員、ラタクザック副操縦士、航空機関士のH・E・アンダーソン (英: H. E. Anderson) の5名だけを載せて離陸した。2機のF-106がマッコード空軍基地から緊急発進し、クーパーの視界に入らないように1機は飛行機の上に、残りの1機は飛行機の下について飛行機を追跡した[39]。元は無関係の空軍州兵の任務にあたっていたT-33練習機も飛行機を追跡していたが、燃料が少なくなり、オレゴン州とカリフォルニア州の州境近くで後戻りした[40]。ハイジャックされた飛行機を追跡していた航空機は全部で5機あった。どの機もクーパーが飛行機から飛び降りたところを見たと報告しておらず、クーパーが着陸した場所がどこかを示すことができなかった[41]。
クーパー事件から1ヵ月後、FBIは身代金の紙幣の通し番号の一覧表を金融機関やカジノ、競馬場、その他大規模な金の取引が日常的に行われる事業所、さらには世界中の法的機関に配布した。ノースウエスト・オリエント航空は身代金を回収した場合、その15%、最大2万5千ドルの褒賞を提供すると申し出た。1972年前半、アメリカ合衆国司法長官のジョン・N・ミッチェルは一般の人に身代金の紙幣の通し番号を公表した[71]。1972年、2人の男性がクーパー事件の身代金の通し番号が印刷された偽の20ドル紙幣を利用して、ニューズウィークの記者のカール・フレミング (英: Karl Fleming) から偽のクーパーとのインタビューと引き換えに3万ドルを騙し取ろうとする事件が発生した[72]。
1973年前半、身代金は依然として行方不明であり、オレゴン・ジャーナル(英語版)は身代金の紙幣の通し番号を再発布し、自社やFBIの事務所に身代金の紙幣を最初に届けた人に1千ドルを提供すると申し出た。シアトルでは、シアトル・ポスト・インテリジェンサー(英語版)が同様に5千ドルの懸賞金の提供を申し出た。これらの懸賞金の申し出は1974年の感謝祭の日まで有効だった。似た通し番号の紙幣は送られてきたが、完全に一致するものは発見されなかった[73]。ノースウエスト・オリエント航空の保険会社のグローバル・インデムニティ (英: Global Indemnity Co.) はミネソタ州最高裁判所(英語版)の命令に従い、ノースウエスト・オリエント航空の身代金に対する支払請求に対して18万ドルを支払った[74]。
後の展開
後の分析で、最初の着地地点の推定は正確ではなかったことが判明した。クーパーの飛行速度と高度の要求に応じるため、スコット操縦士は飛行機を手動で飛ばしていた。後にスコット操縦士は、飛行経路は最初の推定よりも著しく東の方にあったことを確認した[7]。305便の4分後に飛んでいたコンチネンタル航空機の操縦士のトム・ボアン (英: Tom Bohan) を筆頭に、様々な情報源から新たなデータが得られた。これにより、着地地点に影響する風向の推定に誤りがあり、80度もずれていた可能性があると判明した[75]。さらに他の補助的なデータも加えて、実際の着地地点はおそらく最初の推定よりも南南東の地域であると推定された。その場所はワシューガル川(英語版)流域にある[76]。
1980年2月10日日曜日、バンクーバーから川を下って約14キロメートル、アリエルの南西32キロメートルのところにある、ティナ・バーと呼ばれる海岸地帯のところのコロンビア川に面した地点で、8歳のブライアン・イングラム (英: Brian Ingram) が家族とともに休暇を過ごしていた。イングラムがキャンプファイヤーを設けるために砂地の川岸を熊手でかいていると、クーパー事件の身代金の紙幣3束が出てきた。紙幣は著しく風化していたが、紙幣を束ねるゴムバンドは依然として残っていた[81]。FBIの技官はその紙幣が正真正銘の身代金の一部であることを確認した。2束は20ドル紙幣が100枚、1束は90枚で、全てクーパーに渡したときと同じ順番で重なっていた[82][83]。1986年、長く続いた交渉の末、回収された紙幣は少年とノースウエスト・オリエント航空の保険会社の間で等分された。FBIはそのうちの14枚を証拠として保有した[71][84]。2008年、イングラムは件の紙幣のうちの15枚をオークションにかけて約3万7千ドルで売った[85]。今日まで、残りの9,710枚の紙幣の所在が判明していない。これらの紙幣の通し番号は一般の人が捜索できるようにインターネットで閲覧できる[29]。コロンビア川で発見された身代金の紙幣と、エアステアの使い方を説明する札は、飛行機の外で発見されたクーパー事件に由来すると確認された唯一の物的証拠である[86]。
2009年3月、FBIは、シアトルにあるバーク自然史文化博物館(英語版)の古生物学者のトム・ケイ (英: Tom Kaye) が調査団を結成していたことを公開した。団員にはサイエンティフィック・イラストレータのキャロル・アブラクジンスカス (英: Carol Abraczinskas)、金属工学者のアラン・ストーン (英: Alan Stone) が含まれる。後に「クーパー・リサーチ・チーム」(英: Cooper Research Team)[93]として知られるようになる調査団は、GPSや衛星画像、その他1971年には使用できなかった技術を用いてクーパー事件の重要な要素を再調査した[86]。埋まっていた身代金の紙幣やクーパーの着地地点については新しい情報はほとんど得られなかったが、電子顕微鏡を用いてクーパーのネクタイに付着していた数百の微小な粒子を発見し、分析にかけることができた。粒子の中からヒカゲノカズラ属(英語版)のシダ植物の胞子 (調合薬に由来する可能性が高い) が特定され、ビスマスやアルミニウムの破片も特定された[94][95][96]。
クーパーはシアトルに詳しかったようで、空軍の退役軍人だった可能性があった。これは、飛行機がピュージェット湾を旋回中に、クーパーは飛行機の中からタコマ市の存在を認識していたという証言や、マッコード空軍基地がシアトル・タコマ国際空港から車で約20分の距離にあるとマックローに話したことに基づいている。マッコード空軍基地と空港との距離はほとんどの一般人は知らなかっただろう[40]。また、クーパーの経済状況は絶望的な状態だった可能性が非常に高い。FBIの元主任捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハ (英: Ralph Himmelsbach) によると、強要罪などの多額の金を強奪する犯罪はほぼ必ず大金が至急必要であることが動機であるという。そうでなければ、犯罪にそれほどの危険を冒す価値はない[104]。もしくは、クーパーはそれが可能であることを証明したかったためだけに高所から飛び降りたスリル狂いだった可能性もある[105]。
捜査官たちは、クーパーは自身の偽名を人気のある1970年代のベルギーの漫画シリーズからとったという仮説を立てた。その漫画にはダン・クーパー(英語版)という名前の架空のヒーローが登場する。漫画のクーパーはカナダ空軍のテストパイロットで、数多くの冒険を繰り広げており、その中にはパラシュートで降下するシーンもあった (FBIのウェブサイトに転載されていた漫画の表紙の1つには、漫画のクーパーが落下傘兵の装備を全身に纏ってスカイダイビングしている様が描かれている)[86]。この漫画は英語に翻訳されたことがなく、アメリカに輸出されたこともなかった。ハイジャック犯のクーパーはヨーロッパでの仕事の際にこの漫画を知ったのだろうと推測された[86]。クーパー・リサーチ・チームは別の可能性を提案している。クーパーはカナダ人であり、カナダでこの漫画を見つけたというものである。フランス語を話す人口が比較的多いカナダではこの漫画が販売されていた[106]。また、クーパー・リサーチ・チームは、クーパーは身代金を求めて"negotiable American currency"を要求したことに言及した[25]。アメリカ人が自国の通貨について「アメリカの通貨」と表現するのは不自然であり、このような言い回しはアメリカ人ならば滅多に使用しない。目撃者によると、クーパーの英語に独特の訛りは見られなかったという。そのため、もしクーパーがアメリカ人ではなかったら、アメリカとほぼ同じアクセントの英語を話すカナダの出身である可能性が高いという[107]。
FBIはクーパーはスカイダイビングについての技術や経験に乏しかったという結論を出した。2006年から解散される2016年までFBIの調査チームを率いていたラリー・カー (英: Larry Carr) 特別捜査官によると、FBIは当初はクーパーはスカイダイビングの経験が豊富であり、もしかしたら空挺兵かもしれないとさえ考えていたが、数年後にその考えは誤りであるという結論に至ったという。フラップが15度で、荷が軽かったボーイング727はおそらく時速172キロメートルで飛行していたと見られるが、スカイダイビングの経験が豊富な人ならば、雨が降る漆黒の闇夜の中を、顔に時速172キロメートルの風が吹きつける状態で、ローファーやトレンチコートを着て飛び降りるという危険な行動はとらないという。また、クーパーは予備のパラシュートが訓練用で縫われて開かなくなっていることを見逃したが、スカイダイビングの経験の豊富な人ならば確認するという[86]。クーパーはヘルメットを持ち込んだり要求したりすることがなく[112]、与えられたメインのパラシュートから技術的に劣っているうえにより古い方のパラシュートを選んでいた[55]。11月の高度約3千メートル、推定温度-9℃のワシントン州上空を、暴風による体温の低下に対する適切な防護策を用意せずに飛び降りてしまってもいる[113][114]。
しかし、紙幣は自然に流れて堆積したものであるという仮説には難点もある。紙幣の束の1つから紙幣10枚がなくなっていたことの説明になっていない点や、3つの紙幣の束が残りの紙幣の束から分離して一箇所に集まっていたことの論理的な説明が存在しない点である。物的証拠は地理上の証拠とも一致しない。ヒンメルスバッハは、札束が自然に浮かんで岸に流れ着いたのならば、クーパー事件から数年以内にそれが起こっていたはずであり、そうでなくても、ゴムバンドはとっくに風化しきっていただろうと述べている。このことはクーパー・リサーチ・チームが実験で確認している[99]。地理上の証拠によれば、紙幣は陸軍工兵司令部が川の浚渫を行った1974年以降にティナ・バーへ流れ着いたという。ポートランド州立大学の地理学者のレナード・パーマー (英: Leonard Palmer) は、浚渫により川岸に堆積していた粘土の中から砂や堆積物の層を別個に2つ発見した。また、紙幣が埋まっていた砂の層も見つけた。これにより、紙幣は浚渫が完了してから長い時間がたった後に流れ着いたことが示唆されているという[115][117]。クーパー・リサーチ・チームは粘土の層は自然に堆積したことを示す証拠を引き合いに出してパーマーの結論に異議を唱えた。もしこの発見が本当ならば、ゴムのバンドの実験に基づけば、紙幣が流れ着いたのはハイジャックから1年以内であるということになる。しかし、札束がティナ・バーにどのように流れ着いたか、札束がどこから来たのかといったことの説明にはなっていない[118]。
ジャック・コフェルト (英: Jack Coffelt) は前科持ちの詐欺師であり、政府の情報提供者であると噂されていた。自身はエイブラハム・リンカーンの最後の確実な子孫である曾孫のロバート・トッド・リンカーン・ベックウィズ(英語版) (英: Robert Todd Lincoln Beckwith) の運転手であり親友でもあると主張していた。1972年、コフェルトは自分こそがクーパーであると主張し始め、かつて同じ刑務所にいたジェームズ・ブラウン (英: James Brown) という人物を仲介して、ハリウッドの映画制作会社に自身の話を売り込もうとした。コフェルトによれば、コフェルトはアリエルから南東に約80キロメートル離れたフッド山の近くに着陸し、その過程で負傷して身代金を失ったという。1971年にはコフェルトは50代半ばだったものの、コフェルトの写真にはクーパーの似顔絵との類似性があった。コフェルトはクーパー事件の日にポートランドにいたと言われており、その頃に脚にけがを負っていた。飛行機から飛び降りたときの事故での負傷と考えることもできる[131]。
コフェルトの話はFBIにより調査されたが、一般の人々の間には知られていなかった情報の詳細な部分で重大な違いがあったことから、コフェルトの話は捏造という結論になった[132]。コフェルトは1975年に死亡し、その後もブラウンは懲りずに長い間コフェルトの話を吹聴していた。CBSのニュース番組の60 Minutesを含む複数のメディアでコフェルトの話が考察され、退けられた[133]。2008年のリンカーンの子孫についての書籍[134]で、著者のチャールズ・ラクマン (英: Charles Lachman) は、36年前に信用に値しないと評されていたものの、コフェルトの話を再び取り上げた。
2011年8月、ニューヨーク誌は、305便に搭乗していた目撃者のロバート・グレゴリー (英: Robert Gregory) の説明に基づいているとされる別の似顔絵を掲載した。その人物によれば、ハイジャック犯は角縁のサングラスを掛けており、大きなラペルのあるあずき色のスーツジャケットを着ており、髪型はマルセルウェーブだったという。記事では、L.D.クーパーの髪は波打っており、マルセルウェーブにも見えると言及されている (後述の#ドゥエーン・ウェーバーも同様)[139]。FBIはL.D.クーパーが作ったギターストラップからは指紋は発見されなかったと声明した[140]。1週間後、FBIは、L.D.クーパーのDNAはハイジャック犯のネクタイから発見された断片的なDNAプロファイルと一致しなかったと報告したが、ネクタイから発見された生体物質がハイジャック犯に由来する確証がないことは再度認めた[89]。FBIはそれ以上の声明を公的には出していない。
バーバラ・デートン
バーバラ・デートン (英: Barbara Dayton) は1926年生まれのワシントン大学の司書であり、飛行機操縦が趣味だった。出生名はロバート・デートン (英: Robert Dayton) だった。デートンはユナイテッド・ステーツ・マーチャント・マリーン(英語版)で働き、それから第二次世界大戦中は陸軍に加わっていた[141]。退役後、デートンは建設業界で爆薬を扱う仕事をした。定期航空便で仕事をしたいと思っていたが、商業パイロットの資格を得ることはできなかった。
ロバート・リチャード・レプシー (英: Robert Richard Lepsy) はミシガン州グレーリング(英語版)出身の33歳の食料雑貨店の店主であり、4人の子供の父親でもある。レプシーは1969年10月に失踪した。3日後にレプシーの自動車が地元の空港で発見され、外見の説明がレプシーと一致する男がメキシコへの飛行機に搭乗したのを目撃されたと言われている。当局はレプシーは自らの意思で姿をくらましたと結論付け、捜査を打ち切った[155][156]。
ジョン・リスト (英: John List) は税理士であり、第二次世界大戦と朝鮮戦争の兵役を経験した。クーパー事件の15日前、ニュージャージー州ウェストフィールド(英語版)で妻と3人の子供、85歳の母親を殺害し、母親の銀行口座から20万ドルを引き出して姿をくらました[160]。リストの失踪のタイミングや、クーパーの特徴との複数の一致、大量殺人の逃亡犯に失うものはないという推測から、クーパー事件を追っていた捜査官たちはリストに注目した[161][162]。1989年にリストが逮捕されると、リストは家族を殺害したことは認めたが、クーパー事件への関与は認めなかった。クーパー事件に関する記事やドキュメンタリーにはいまだにリストの名前が挙がるが、リストが犯人であることを示す確固たる証拠は存在せず、FBIももはやリストがクーパー事件の被疑者であるとは考えていない[163]。リストは獄中で2008年に死亡した[164]。
テッド・メイフィールド
テオドール・E・メイフィールド (英: Theodore E. Mayfield、テッド・メイフィールド <英: Ted Mayfield>) は特殊部隊での軍務を経験した人物であり、パイロット、競技スカイダイビングの選手、スカイダイビングのインストラクターでもあった。スカイダイビング講習中に2人の生徒がパラシュートが開かずに死亡した事件により、過失致死で1994年に服役した[165]。後に、さらに13件のスカイダイビング中の死亡事故への間接的な責任が認められた。これらの事故の原因は装備や訓練の欠陥だった。メイフィールドの犯罪歴の記録には武装強盗や盗難飛行機の運搬という前科も記されている[166]。2010年、パイロットの免許を失ってから26年後に飛行機を操縦したことにより、3年間の保護観察処分の判決を受けた[167]。FBIの捜査官のラルフ・ヒンメルスバッハによると、捜査の初期段階で、メイフィールドは度々被疑者として名前が挙がったという。ヒンメルバッハは以前に地元の空港で起きた喧嘩からメイフィールドのことを知っていた。メイフィールドは被疑者から除外されたが、その理由の1つは、305便がリノに着陸してから2時間もたたないうちに、メイフィールドがヒンメルスバッハに電話して、標準的なスカイダイビングの慣例や着地地点についてのアドバイスを志願したことである[168]。
2006年、2人のアマチュア研究者のダニエル・ドヴォラク (英: Daniel Dvorak) とマシュー・マイヤース (英: Matthew Myers) は、メイフィールドが被疑者であるという説を再び持ち出し、メイフィールドが犯人であることを示す状況証拠を収集したと断言した[166][169]。2人は、メイフィールドがヒンメルバッハに電話した理由はアドバイスの提供を申し出るためではなく、アリバイを作るためだったという仮説を立て、夜に原野へ飛び降りてから4時間もたたずにFBIに電話をかけるのは不可能であるというヒンメルスバッハの結論に異議を唱えた[169]。メイフィールドは事件への関与を否定し、クーパー事件の最中にFBIが自分に5回電話をかけて、パラシュートや地元のスカイダイバー、スカイダイビングの技術について質問してきたと以前に断言したことを繰り返し述べた[166]。ただし、ヒンメルバッハによると、FBIからメイフィールドに電話をかけたことは一切なかったという[170]。さらに、メイフィールドは、ドヴォラクとマイヤースが自分たちの説に同調することを持ちかけ、一緒に大金を稼ごうと誘ってきたと告発した。ドヴォラクとマイヤースはメイフィールドと内通したという話は見え透いた嘘であると述べた[169]。メイフィールドは2015年に死亡した[166]。メイフィールドは早い段階で被疑者から除外されたというヒンメルスバッハの元の発言を除けば、FBIはメイフィールドについていかなる声明も出していない[168]。
1991年のD.B. Cooper: The Real McCoyという書籍[178]で、著者であるパロール・オフィサーのバーニー・ローズ (英: Bernie Rhodes) とかつてFBIの捜査官だったラッセル・カラム (英: Russell Calame) は、マッコイがクーパーの正体であることを突き止めたと断言した。2人は2つのハイジャック事件の明白な類似性を引き合いに出し、さらに、マッコイの家族が飛行機に残されたネクタイと真珠母のネクタイ留めはマッコイのものであると主張したことや、マッコイ自身が自分がクーパーであることを認めることも否定することもしなかったことを根拠とした[173][179]。カラムはマッコイを射殺した捜査官だった[173]。
ロバート・ウェズリー・ラックストロー (英: Robert Wesley Rackstraw、1943年 - 2019年7月9日) は元パイロットであり、犯罪の前科がある。ベトナム戦争では陸軍のヘリコプターの乗組員や他の部隊で服務した。1978年2月に、ラックストローが爆薬の所持と小切手詐欺の嫌疑を受けてイランで逮捕され、アメリカに移送された事件が起こり、クーパー事件を追っていた捜査官の注目を集めた。数ヵ月後、保釈中だったとき、ラックストローは偽のメーデーの通報をして、管制官にモントレー湾上空でレンタルした飛行機からパラシュートを使って脱出すると告げて、自分の死を偽装しようとした[182]。後に、警察はパイロットの免許証を捏造した容疑でカリフォルニア州フラートンでラックストローを逮捕した。ラックストローが不時着水させたと主張していた飛行機は、塗装を変えた状態で近くの格納庫で発見された[183][184]。クーパー事件の捜査官は、ラックストローは1971年時点で28歳と若かったものの[185]、クーパーの似顔絵と身体的特徴が似ており、軍でパラシュートの訓練を受けていたことと、犯罪の前科があることについて言及した。しかし、クーパー事件との関与を示す直接的な証拠が発見できず、1979年に被疑者から除外された[186][187]。
2016年、ヒストリーチャンネルの番組[188]や書籍[189]でラックストローが再び容疑者として名前が挙がった。2016年9月8日、The Last Master Outlaw(英語版)の著者のトーマス・J・コルバート (英: Thomas J. Colbert) と弁護士のマーク・ザイド(英語版) (英: Mark Zaid) が、情報公開法を根拠としてFBIにクーパー事件の捜査資料を公開するように請求する訴訟を起こした。訴訟では、FBIがクーパー事件の捜査を停止したのは、ラックストローを告訴するのに十分な証拠を集めることに失敗したことで決まりの悪い思いをしないように済むために、ラックストローがクーパーであるという仮説を覆すことを目的としていたと主張されていた[190]。2018年1月、小規模の未解決事件ドキュメンタリー集団が、1971年12月に書かれた手紙を入手したと報告した。調査団はトーマス・コルバートとドンナ・コルバート (英: Dawna Colbert) が統率していた。調査団は、手紙に書かれた暗号を解読し、ラックストローが陸軍に在籍していたときに所属していた3つの部隊と一致したと報告した。FBIはアマチュアの調査団が自分たちが解決できなかった事件を解き明かしたことを認めることになるから自分たちの発見を承認しようとしなかったとも述べた[191]。
ウォルター・R・レカ (英: Walter R. Reca、1933年 - 2014年[197]、出生名はウォルター・R・ピカ <英: Walter R. Peca>) はミシガン州の住人であり[198]、軍隊に所属していた経験があり、ミシガン・パラシュート・チームの最初期のメンバーだった。2018年5月17日の記者会見で、レカの友人のカール・ラウリン (英: Carl Laurin) がレカを被疑者とする説を提唱した[199][200]。ラウリンはかつては商業航空会社のパイロットであり、自身もパラシュートの熟練者である。2008年、レカは電話を通じてラウリンに自身がクーパーであることを告白した[201]。2018年7月、プリンシピア・メディアはこの件の調査についてのドキュメンタリーを4部にわたって放映した。
レカは公証人によって署名された手紙を通じて、自身の死後にこの話を他者に話す許可をラウリンに与えていた。レカは2014年に80歳で死亡した。レカとラウリンは2008年後半に6週間にわたってクーパー事件について電話で会話しており、レカはそれを録音することも許可した。3時間以上におよぶ会話の中では、レカは以前まで一般には知られていなかったクーパー事件の詳細について新しい情報を出した。レカは姪のリサ・ストーリー (英: Lisa Story) にも自身がクーパーであることを告白した[202]。ラウリンは数年間トレーニングの時間を使ってクーパーがパラシュートで降下した場所を突き止めようとし、クーパーはワシントン州クレエラム付近に着陸したと結論付けた。
証言によると、クレエラムの住人のジェフ・オシアダッツ (英: Jeff Osiadacz) は1971年11月24日の夜にクレエラム付近でダンプカーを走らせていたという。その際、悪天候の中で道路のわきを歩く男を見かけた。オシアダッツは、その人物は車が故障し、助力を求めて歩いているのだろうと推測した。しかし、ダンプカーには男を乗せるだけの空きがなかった。オシアダッツはそのまま目的地であるクレエラムのすぐ外れにあるティーナウェイ・ジャンクション・カフェ (英: Teanaway Junction Café) へ向かった。オシアダッツがコーヒーを頼んだ後、件の男もカフェに入ってきた。さながら溺れたネズミのような見た目だったという。男はオシアダッツの隣に座り、自分の友人をここへ案内したいため、その友人に電話をかけてほしいと頼んだ。オシアダッツは了承し、その男の友人に電話で話しかけ、カフェの場所を教えた。それからまもなく、オシアダッツはバンドの演奏をするためグランジェ・ホールへ向かうためにカフェを出ようとした。男はコーヒーの代金を払うことを申し出て、2人は友好的に別れた。
2016年、ラウリンはプリンシピア・メディアの経営者にこの情報を伝え、経営者は科学調査の専門家のジョー・ケーニグ (英: Joe Koenig) に相談した[204]。ケーニグはラウリンが持ってきた全ての文書を鑑定した。文書にはパスポートやIDカード、写真、新聞の切り抜きが含まれる。ケーニグは改竄の証拠はなく、全ての文書は本物でその時代のものであると評価した。ラウリンの調査と入手可能なFBIの記録と比較すると、レカが被疑者でないと見なせる矛盾は見つからなかった。ケーニグはオシアダッツの1971年11月24日の夜の出来事についての証言がレカがその5年前に話したことと一致することが特に重要であるとも考えた。ケーニグは2018年5月17日に開かれたプリンシピア・メディアの記者会見で、ウォルター・R・レカがクーパーの正体と考えていると公言した[205]。2019年1月8日、ケーニグはGetting the Truthと題したクーパーについての書籍を出版した[206]。
ウィリアム・J・スミス
2018年11月、オレゴニアン誌がニュージャージー州ブルームフィールドに住んでいたウィリアム・J・スミス (英: William J. Smith、1928年 - 2018年)[207]が被疑者の可能性があると報じる記事を掲載した。この記事はアメリカ軍のデータを解析していた研究者の調査に基づいていた。この研究者は自身の発見を2018年半ばにFBIに送付している[208]。スミスは第二次世界大戦時の海軍での兵役を経験した人物で、クーパー事件のときは43歳だった。スミスは高校卒業後に海軍に入り、空を飛びたいと言って戦闘機乗りに志願した。海軍を退役すると、リーハイ・バレー鉄道で働き、1970年のペン・セントラル鉄道倒産のあおりを受けた。これは当時ではアメリカ史上最大規模の倒産だった。記事では、この倒産によりスミスは年金を失い、企業体制と交通産業に対する恨みを抱いたという仮説を立てている。また、年金を失ったことで突然に金が必要な状況に追い込まれたとも推測される。スミスの母校の高校の年鑑では、第二次世界大戦で死亡した同窓の一覧にアイラ・ダニエル・クーパー (英: Ira Daniel Cooper) という人物の名前を掲載していた。これが「ダン・クーパー」という偽名の由来になった可能性がある[208]。研究者は、スミスの海軍時代での航空機の経験により飛行機やパラシュートの知識を得て、鉄道会社で働いていたときの経験が飛行機から飛び降りた後にそこから逃亡するために鉄道軌道を見つけて電車に乗る助けとなったのだろうと述べた[209]。研究者は、自身の調査はマックス・ガンサー (英: Max Gunther) が1985年に著した書籍D.B. Cooper: What Really Happenedとウィリアム・J・スミスとを結び付けたことで始まったとも述べている[210]。
オレゴニアンの記事では、ネクタイから発見されたアルミニウムの螺旋状の小片などの粒子は機関車整備施設に由来する可能性があるとも書かれている。さらに、スミスがクーパーだとして、スミスがシアトル地域の情報を知っていたのは、鉄道で働いていたとき以来のスミスの親友であり、第二次世界大戦中にルイス駐屯地に配置されていた人物であるダン・クレア (英: Dan Clair) から聞いたためかもしれないとも記されている。スミスとクレアはニュージャージー州ニュアークにあるオーク・アイランド・ヤードで一緒に働いており、スミスはコンレールの助役の職を退職した。記事には、リーハイ・バレー鉄道の写真を掲載しているウェブサイトにスミスの写真があり、クーパーの似顔絵と著しく似ているとも書かれている[211]。FBIはメディアのスミスに関する要求に対して、特定の被疑者についてコメントするのは不適切であると述べた[208]。
ドゥエーン・ウェーバー
ドゥエーン・L・ウェーバー (英: Duane L. Weber) は第二次世界大戦に陸軍での兵役を経験した人物であり、1945年から1968年の間に強盗や文書偽造で少なくとも6箇所の刑務所で服役していた。ウェーバーは自身の妻から被疑者であるという説が出されたが、これは第一にはウェーバー自身の死に際での犯行の告白を元としていた。ウェーバーは1995年に死亡したが、その3日前、ウェーバーは妻に自分はダン・クーパーであると伝えた。妻はその名前の意味が分からなかったというが、数ヵ月後に、友人がその名前の意味を教えた。妻は地元の図書館へ行ってクーパーについて調べた。マックス・ガンサーの書籍を見つけ、その余白に夫の筆跡でメモが書かれていることを発見した[5]。
クーパーは私益のためにハイジャックを行った最初の人物というわけではない。例えば、1971年11月初旬、カナダ人のポール・ジョセフ・チーニ (英: Paul Joseph Cini) はモンタナ州上空でエア・カナダのDC-8機をハイジャックした。しかし、持参してきたパラシュートを装着しようとして散弾銃を下ろしたときに乗員により制圧された[213][214]。クーパーは少なくともパラシュートで降下するところまでハイジャックを成功させていたため、にわかに模倣犯が現れた。そのような事件のほとんどは1972年に起きた[215]。その中で著名な例を次に挙げる。
リチャード・チャールズ・ラポイント (英: Richard Charles LaPoint) は陸軍での兵役を経験した人物であり、"New England beach bum"[217] (直訳すると「ニューイングランドの海辺で遊び呆けている人物」) でもあった。ラポイントは1月20日にラスベガスのマッカランでヒューズ・エア・ウエスト800便のDC-9機に搭乗した。飛行機が誘導路にいるときに、ラポイントは爆弾と称するものを見せ付けて脅迫し、5万ドルとパラシュート2つ、ヘルメットを要求した[218]。51名の乗客と2名の客室乗務員を解放すると、デンバーへ向けて東に飛行機を飛ばすように命令した[219]。その後、コロラド州北東部の木のない平原の上空でパラシュートで降下した。実はパラシュートには探知機が付いていた。当局はパラシュートと雪や泥についた足跡を追跡し、数時間後にラポイントを逮捕した[220][221][222]。
マーティン・マクナリー (英: Martin McNally) はかつてはガソリンスタンドの案内係だったが当時は無職だった。6月下旬にセントルイスからタルサへ向かう途中のアメリカン航空のボーイング727を短機関銃を持ってハイジャックし、東に方向転換してインディアナ州へ向かわせ、50万ドルの身代金を持ってパラシュートで降下した[229]。マクナリーは飛行機から出るときに身代金をなくしてしまったが、インディアナ州ペルー(英語版)の近くで安全に着陸した。数日後にデトロイト近郊で逮捕された[230]。
1972年に発生したクーパー事件に似たハイジャック事件は全部で15件あり、すべて失敗に終わった[231]。1973年に全国的に手荷物の検査を行うようになり (#空港の安全性を参照)、全体的なハイジャック事件の発生率は劇的に減少した[232]。クーパー事件を模倣したハイジャック事件は、1980年7月11日を最後に顕著な例は存在しなかった。この日、グレン・K・トリップ (英: Glenn K. Tripp) がノースウエスト航空608便をシアトル・タコマ空港でハイジャックし、60万ドル (ある文献では10万ドル)[233]とパラシュート2つ、自身の上司の暗殺を要求した。しかし、客室乗務員がとっさの判断でアルコール飲料に密かにバリウムを混ぜてトリップに与えた。10時間もの膠着状態の間に、トリップは要求をチーズバーガー3個と先んじて逃走することに変更し、その後に逮捕された[234]。しかし、1983年1月21日、トリップはまだ保護観察中だったが、再び同じノースウエスト航空機を今度は飛行中にハイジャックし、アフガニスタンへ飛行機を飛ばすことを要求した。飛行機がポートランドに着陸したときに、トリップはFBIの捜査官に銃殺された[235]。
事件の余波
空港の安全性
クーパー事件が商業航空に安全性をもたらす幕開けとなった。前年にスカイ・マーシャル・プログラムが開始されたにも関わらず[232]、1972年にアメリカ上空を飛ぶ飛行機で31件もハイジャック事件が発生していた。そのうちの19件が金の強奪が目的で、それ以外の事件のほとんどがキューバへ向かうことが目的だった[236]。金の強奪を目的とした事件のうちの15件はパラシュートも要求された[231]。1973年前半、連邦航空局は、航空会社に乗客全員とその鞄を検査することを要求した。このような手荷物の検査が検査と押収を規制する憲法修正第4条に反していると複数の訴訟が起こされたが、連邦裁判所は、このような検査が全国的に行われ、かつそれが武器や爆薬の探知を目的とした検査に限られるときに許可されると決定した[232]。1972年に31件もハイジャックがあったのに対し、1973年は2件しか起こらなかった。どちらも精神障害者による犯行で、そのうちの1人であるサミュエル・ビック(英語版) (英: Samuel Byck) は飛行機をホワイトハウスに突っ込ませてニクソン大統領を殺害しようと企てた[237]。
飛行機の改修
1972年に模倣犯による犯行が相次いで起きたため、連邦航空局はボーイング727全機に飛行中の尾部のエアステアの降下をできなくする装置を装着することを義務付けた。この装置は後に「クーパー・ベーン」(英: Cooper vane) と呼ばれた[232][238]。また、クーパー事件を直接的な理由として、全ての飛行機のコックピットのドアに覗き穴が導入された。これにより、コックピットにいる乗員がコックピットのドアを開けることなく客室にいる人の様子を見ることができるようになった[239]。
ヒンメルスバッハがクーパーのことを"rotten sleazy crook"[246] (直訳すると「腐った薄汚いペテン師」) と呼んだことは有名だが、クーパーの大胆で冒険的な犯行はカルト的な支持者を生み出し、歌や映画、文学の題材となった。太平洋岸北西地区にある料理店やボーリング場は定期的にクーパーをテーマに宣伝活動を行い、観光客向けのみやげを売っている。エアリアル・ジェネラル・ストア・アンド・タヴァーン (英: Ariel General Store and Tavern、直訳すると「アリエル雑貨店・居酒屋」) では1974年から毎年11月に「クーパーの日」のお祝いが開かれた。ただし、2015年は経営者のドナ・エリオット (英: Dona Elliott) が亡くなったため行われなかった[247]。
^Bragg, Lynn E. (2005). Myths and Mysteries of Washington. Guilford, Connecticut: Globe Pequot. p. 2. ISBN978-0-7627-3427-6
^Steven, Richard (November 24, 1996). “When D.B. Cooper Dropped From Sky: Where did the daring, mysterious skyjacker go? Twenty-five years later, the search is still on for even a trace”. The Philadelphia Inquirer: p. A20
^Taylor, Michael (November 24, 1996). “D.B. Cooper legend still up in air 25 years after leap, hijackers prompts strong feelings”. San Francisco Chronicle
^Richardson, Ross (2014). Still missing: rethinking the D.B. Cooper case and other mysterious unsolved disappearances. Lake Ann, Michigan: Terra Mysteria Media. pp. 142-7. ISBN099600470X
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^Smith, BA (May 4, 2013): "Update on the murder of Earl Cossey, an analysis of his role in the DB Cooper case". The Mounatain News. Retrieved May 29, 2013
^Johnson G (April 30, 2013): "Earl Cossey, DB Cooper Parachute Packer, ID'd As Homicide Victim". HuffingtonPost.com Retrieved May 29, 2013
^Slatta, Richard W. (2001). The Mythical West: An Encyclopedia of Legend, Lore and Popular Culture
参考文献
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Gunther, Max (1985). D. B. Cooper: What Really Happened. Chicago: Contemporary Books. ISBN0-8092-5180-9 (「クララ」 <英: Clara> と呼称される女性とのインタビューに基づく。クララはクーパー事件の2日後に負傷したクーパーを発見し、10年後にクーパーが死亡するまで一緒に暮らしていたと主張している。FBIからは虚偽であると見なされている)
Himmelsbach, Ralph P.; Worcester, Thomas K. (1986). Norjak: The Investigation of D. B. Cooper. West Linn, Oregon: Norjak Project. ISBN978-0-9617415-0-1 (ヒンメルスバッハはFBIのこの事件の主任捜査官であり、1980年に退職するまで事件を追っていた。FBIではクーパー事件を"Norjak"と略記していた)
Rhodes, B.; Calame, R. (1991). D.B. Cooper: The Real McCoy. Univ. of Utah Press. ISBN0-87480-377-2 (模倣犯リチャード・マッコイがクーパーの正体であることを示す状況証拠の概要)
Reid, Elwood (2005). D.B.: A Novel. Anchor Books. ISBN0-385-49739-3 (フィクション。クーパー事件の真相を描くことを意図しているが、事実上裏付けがない)
Forman, P.; Forman, R. (2008). The Legend of D.B. Cooper – Death by Natural Causes. Borders Personal Publishing. ISBN1-60552-014-4 (バーバラ・デートンの話を自費出版したもの。デートンは男性に変装してハイジャックを実行したと主張したが、後に撤回した)
Grant, Walter (2008). D.B. Cooper, Where Are You?. Publication Consultants. ISBN1-59433-076-X (クーパー事件で何が起こったのかを空想的に描いたもの)
Koenig, Joe (2019). Getting the Truth: I am D.B. Cooper. Principia Media
Nuttall, George C. (2010). D.B. Cooper Case Exposed: J. Edgar Hoover Cover Up?. Vantage Press. ISBN978-0-533-16390-8 (陰謀と隠蔽工作があったという説だが、事実上裏付けがない)
Olson, Kay Melchisedech (2010). D.B. Cooper Hijacking: Vanishing Act. Compass Point Books. ISBN978-0-7565-4359-4 (公式の情報や証拠を虚偽なく記している)
Porteous, Skipp; Blevins, Robert M. (2010). Into the Blast – The True Story of D.B. Cooper. Seattle, Washington: Adventure Books of Seattle. ISBN978-0-9823271-8-0 (ケネス・クリスチャンセンが犯人であることを示す状況証拠を収集したもの)
Gray, Geoffrey (2011). Skyjack: The Hunt for D.B. Cooper. Crown. ISBN0-307-45129-1 (著者はケネス・クリスチャンセンが被疑者であるという説を2007年のニューヨーク誌の記事に記した)
Colbert, Thomas J. (2016). The Last Master Outlaw: How He Outfoxed the FBI Six Times—but Not a Cold Case Team (1st ed.). Jacaranda Roots Publishing. pp. 330. ISBN978-0-9977404-3-1
Smith, Bruce A. (2016). DB Cooper and the FBI: A Case Study of America’s Only Unsolved Hijacking. Bruce A. Smith Publishing. ISBN978-0-99731-200-3 (クーパー事件を包括的に研究したものであり、主要な被疑者についての記述もある)