1996年の国際ツーリングカー選手権
1996年の国際ツーリングカー選手権は、国際ツーリングカー選手権の2回目のシーズンである。FIAのクラス1ツーリングカー規定で争われ、メルセデス・ベンツ、アルファロメオ、オペルが参戦した。 前年はドイツツーリングカー選手権と併催の形で実施されたが、今年度は統合して実施された。タイトルはマヌエル・ロイターとオペルが獲得した。 シーズン概要参戦する3つのメーカーはシーズンを通してほぼ等しい力を持ち、接戦を繰り広げた。ロイター以外のオペルの勝者としては、ハンス=ヨアヒム・スタックがヘルシンキで、クラウス・ルドヴィックがノリスリンクで優勝した。オペルに次いでマニファクチャラー2位になったアルファ・ロメオは元ベネトンF1のアレッサンドロ・ナニーニを擁し、ナニーニはシーズン7勝を挙げてランキング3位に入った。チームメイトのニコラ・ラリーニはリタイアが多かったものの、シーズン後半に2勝を挙げフェラーリのテストドライバーが伊達で無かったことを証明した。 メルセデス・ベンツはマニファクチャラー3位となったが、他の2メーカーと遜色ない戦闘力を発揮した。DTMおよびITCの前年チャンピオン、ベルント・シュナイダーは4勝を挙げてランキング2位となった。一方前年2位のヨルグ・ファン・オーメンは1勝を挙げただけであった。ジュニアチームのドライバー - 後にスチュワート・グランプリからF1フル参戦するヤン・マグヌッセン、インディカー・シリーズで成功するダリオ・フランキッティ - は開幕戦と最終戦でそれぞれ勝利した。フランキッティはランキング4位となり、マグヌッセンはシーズン中盤CARTに挑戦したことでタイトル争いに加わることはできなかった。このほかにも、ザウバーやベネトンでF1をドライブしたJ.J.レートがオペルをドライブ、ミナルディでF1をドライブしたジャンカルロ・フィジケラはアルファ・ロメオを、ポルシェ・スーパーカップの元チャンピオン、ウーヴェ・アルツェンがオペルをドライブした。 さらにティレルやジョーダンでF1をドライブしたステファノ・モデナはアルファ・ロメオをドライブ、チームメイトの元BTCCチャンピオン、ガブリエル・タルキーニはシルバーストーンで圧倒的な勝利を挙げたが、それ以外は不運に悩まされた。アルファ・ロメオのクリスチャン・ダナーも失意のシーズンを送った一人だった。ロイターのチームメイト、ル・マン24時間勝者のヤニック・ダルマス、シュナイダーのチームメイト、元DTMチャンピオンのクルト・ティームもシーズンを苦戦した。ティームはシーズン後半に後のF1ドライバー、アレクサンダー・ヴルツ、ジェイソン・ワットと交代させられた。3メーカーともインテルラゴスと鈴鹿では地元ドライバーを起用した。このうちでドイツF3のレギュラードライバーであったマックス・ウィルソンは地元ブラジルで2位に入るという活躍を示した。 結局、タイトルは一貫して安定した成績を残したロイターの物となった。彼は序盤15戦で連続してポイントを挙げ、ポイントを残せなかったのは6戦のみであった。対照的にシュナイダーとナニーニはロイターよりも多くの勝利を挙げたにもかかわらず、両者はそれぞれ9戦、12戦でポイントを落とした。 主に元F1ドライバーから成る強力なドライバーラインナップと、表面上はメーカーの強力な支持を受けたシリーズであったが、不十分なメディア露出とテレビ中継に苦しめられた。人気のなさは活気の無い観客動員と共に、「クラス1」ツーリングカーを走らせるための莫大な費用と、シリーズ自体の僅かな収益の差に現れた。この差はインテルラゴスと鈴鹿という二つの長旅によって更に悪化した。シリーズは競争する車両が実際には販売されていない国でも実施された。これはアルファ・ロメオとオペルが、1997年シーズン末まで参戦するという立場を明らかにしていたにもかかわらず、9月に1996年シーズン終了後撤退することを発表する原因となった。唯一メルセデス・ベンツは1997年も参戦継続を表明していたが、シリーズは1996年を以て終了することとなった。 シリーズは2000年にドイツを拠点としたドイチェ・トゥーレンヴァーゲン・マスターズとして復活した。 1996年の参戦チーム・ドライバー1996年の開催スケジュールと勝者
レース結果とランキングドライバーズ・チャンピオンシップ
注:
マニファクチャラー・チャンピオンシップ[1]
注
参照
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