1993年の香港(1993ねんのホンコン)では、1993年の香港の出来事について記す。香港がイギリスの植民地になって153年目、香港の主権が中国へ返還される4年前。
できごと
1月
2月
3月
- 3月3日 - 財政司の麦高楽は1993~1994年度の政府財政予算案を発表した。
- 3月5日 - 香港総督のクリス・パッテンは2日間の日程で日本を訪問した。
- 3月12日 - クリス・パッテンの政治改革修正案が発表され、香港ハンセン株価指数は30分で200ポイント余り暴落した。
- 3月15日 - カナダ東岸で貨物船が沈没し、香港人船員29人が死亡した。
- 3月17日 - 中国政府の香港・マカオ担当の魯平は記者会見を開いて、クリス・パッテン香港総督の政治改革法案について、香港の歴史上の『永遠の罪人』になると批判した。
- 3月23日 - 九竜城砦[6]の解体工事が開始された。
- 3月26日 - 沙田源禾通りで2台の2階建てバスが正面衝突事故を起こし25人負傷。[7]
- 3月31日 - 香港総督はブリュッセルとロンドンを訪問した。
4月
- 4月1日 - 香港金融管理局が設立された。香港政庁財政司の直接指揮のもと香港の金融政策と銀行、貨幣の監督責任を持ち中央銀行の役割を担う。初代総裁は任志剛。
- 4月2日 - クリス・パッテン総督はイギリス本国に帰って業務の進捗を報告した。
- 4月3日 - 深圳の出入国検問所でコンピュータの故障が発生、羅湖駅と紅磡駅が閉鎖されて利用者に影響が出た。
- 4月13日 - 大新銀行は永安銀行を買収した。
- 4月21日 - 立法局は死刑制度廃止を正式に可決した。(香港で最後に死刑が執行されたのは1966年11月16日)
- 4月27日 - 地下鉄で荃湾駅に向かっていた8両編成の列車が、5両目と6両目の連結部の不具合により後ろ3両を大窩口駅のトンネルに残したまま運行を続けた。車掌は列車が荃湾駅に到着した後でやっと事故に気付いた。5両目と6両目の通路には乗客いなかったため死傷者は無かった。香港地鐵有限公司は10日後に調査レポートを公表、事故原因が連結部品の経年劣化および定期検査がないために発見できなかったことを指摘した。[8]
- 4月28日 - 中国とイギリスは1994年と1995年の香港の議会選挙の手配などの政治改革の問題の第1回会合を2日間の日程で北京で再開した。
5月
6月
- 6月1日 - 立法局の梁錦濠議員は選挙での収賄容疑で懲役3年の実刑判決を受けた。
黄家駒は
フジテレビの
河田町の旧跡のビル(左図)の第4録画室の出演するゲームの番組の時に、3メートルの高い台の上で水に浸されて滑って転ぶため、地面に落ちて、左側のおでこは当たって重傷は人事不省になって、
東京女子医科大学病院(右図)が受けて応急手当に送ります。
[13]
7月
- 7月1日:
- 香港電気通信管理局が設立された。
- クリス・パッテン総督は業務の進捗を報告するため本年2度目の帰国。
- 7月2日 - 夜、黄家駒の遺体が香港に到着し、フジテレビの番組監督村上光一およびBEYONDの残り3名は香港ホテルで記者会見を行った。[21]
- 7月4日 - 香港葬儀所は霊堂を設けて黄家駒への弔問を受け付け、夜には商業放送は土瓜湾高山劇場で入場無料の追悼コンサート『永遠に家駒をしのびます』を開催した。2,600席の会場は超満員となり、ファンは極度の哀悼を表現して、泣き声は止まらなかった。[22]
- 7月5日 - 黄家駒は仏教式で出棺、多くのBEYONDファンが行列し柩の安置された霊堂に入り追悼、中では感情を抑えきれないファンが、大声で彼の名前を呼んだ。納棺の儀式は12時ごろ終了、この時霊堂の周囲には数千人のファンが取り囲み、霊柩車が葬儀所出発するときには、霊柩車に殺到して現場は混乱した[23]。警察が交通規制を敷き、遺体は埋葬される将軍澳華人永遠墓場に到着した。約500人のファンも詰めかけ[24]、大声で「彼は生きている」と唱和した。
- 7月10日 - 台風3号が香港を襲い、皇家香港天文台は1番警備信号[25]を発表した、負傷者は無かった。
- 7月11日 - フジテレビは東京・増上寺で黄家駒のために追悼会を開催した。[26]
- 7月13日 - 土瓜湾の小学校校長が女性下役を殺害して逮捕された。
- 7月25日 - 69M線(九竜バス)の天水囲の屏夏通りと洪天通りの境界で2階建てバスが横転し負傷者40名。[27]
- 7月26日 - 香港の公共プールでアメーバが検出された。
8月
9月
10月
11月
12月
芸能界の大賞
香港放送は十大中国語の金曲の授賞するコンサート(第16回)
誕生
死去
出典
関連項目
参考文献
外部リンク