鷹司院帥(たかつかさいんのそち、生没年不詳[* 1])は、鎌倉時代の女流歌人。藤原北家高藤流右大弁藤原光俊(葉室光俊・法号真観)の娘。共に勅撰歌人である大僧都定円、尚侍家中納言(藤原親子)は兄弟姉妹。
経歴
後堀河天皇の中宮鷹司院近衛長子に出仕、父光俊や正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『続後撰和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。
逸話
- 古来著名な歌枕である勿来関は、現代に至るまで正確な所在地は不明とされているが、平安鎌倉期においても「遠くて、よくわからないところ」の象徴とされていた。
関霧 帥
このころは さそへたつらむ あつまちの なこそのせきの あきのゆうきり
— 『宝治百首』 秋
- 知家をはじめとする六条藤家と父光俊らが中心となって催行し、「反御子左派の旗あげ」とも言われる『春日若宮社歌合』に参加し、勝2持1の評価を得た。
右 勝 鷹司院帥
みよし野の山にいる人道もあらじ かつふりまさる雪のふかさに
— 『春日若宮社歌合』 雪 九番
- 判者藤原知家は「ことにをかしくて雪のふかさもまさりてや侍らん」と評している。
- 一方、同じく「反御子左色が濃厚」とされる『九月十三夜百首歌合』では、
右 帥
なげきのみこりやつむらん山人の をのの炭やく煙くらべに
— 『九月十三夜百首歌合』 五百九十七番
- 恋歌でもないのに、不吉な煙のたなびくイメージを想起させる点が批判され、負と判定されている。
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
[* 2]
名称 |
時期 |
作者名表記 |
備考
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春日若宮社歌合 |
1246年(寛元4年)12月 |
鷹司院帥 |
藤原経定と番い勝2持1
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宝治百首 |
1248年(宝治2年) |
鷹司院帥 帥 |
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九月十三夜影供歌合 |
1251年(建長3年) |
鷹司院帥 |
藤原経平と番い勝3負2持5
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九月十三夜百首歌合 |
1256年(建長8年) |
鷹司院帥 |
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中務卿宗尊親王家百首[3] |
1261年(弘長元年) |
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八月十五夜歌合 |
1265年(文永2年) |
鷹司院帥 |
藤原経平と番い勝2負1持3
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- 私家集
脚注
注釈
- ^ 葉室定嗣 『葉黄記』 宝治二年正月十八日条に「鷹司院帥 右丞禅門息年十三」とあるのを信ずれば1236年(嘉禎2年)生となるが、春日若宮歌合に十一歳で出詠したことになるため慎重を要する(安井久善 1971)。
- ^ 1243年(寛元元年)『河合社歌合』に出詠している「兵衛督」は、通常は鷹司院按察を指すと考えられるが、帥である可能性もある((新井ら 2009)ほか参考文献)。
出典
参考文献
関連項目