尚侍家中納言(ないしのかみけちゅうなごん、生没年不詳)は、鎌倉時代の女流歌人。女房三十六歌仙の一人。藤原北家高藤流右大弁藤原光俊(葉室光俊・法号真観)の娘、藤原親子(ふじわらのちかこ、または、ふじわらのしんし)。共に勅撰歌人である大僧都定円、鷹司院帥は兄弟姉妹。後嵯峨院中納言典侍(ごさがいんのちゅうなごんのてんじ)[* 1]とも呼ばれた。
経歴
後嵯峨天皇の典侍として出仕、父光俊や正三位知家(藤原知家)らと共に、御子左派への対抗勢力を形成。『続後撰和歌集』以降の勅撰集、歌合等に作品を残している。1278年(弘安元年)の『弘安百首』を詠進しており、この時点で健在だったことがわかる。
逸話
- 知家をはじめとする六条藤家と父光俊らが中心となって催行し、「反御子左派の旗あげ」[1]とも言われる『春日若宮社歌合』に参加し、勝2持1の評価を得た。
左 勝 尚侍家中納言
ふみつくる跡見まほしき人はこで さもいたづらにつもる雪かな
— 『春日若宮社歌合』 雪 十二番
作品
- 勅撰集
- 定数歌・歌合
名称 |
時期 |
作者名表記 |
備考
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春日若宮社歌合 |
1246年(寛元4年)12月 |
尚侍家中納言 |
「中納言弟」と番い勝2持1
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九月十三夜百首歌合 |
1256年(建長8年) |
院中納言 |
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八月十五夜歌合 |
1265年(文永2年) |
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弘安百首 |
1278年(弘安元年) |
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- 私家集
脚注
注釈
- ^ 『弁内侍日記』『増鏡』の後深草天皇の記事中に「中納言典侍」という女官が登場するが、『弁内侍日記』では「実家卿女」と注されているので別人か。
出典
参考文献
関連項目