鰊御殿鰊御殿(にしんごてん)は、一般的には、第二次世界大戦前に北海道の日本海側に建てられた、網元や漁師たちが寝泊りした居宅兼漁業施設(番屋)の俗称[1][2]。ただし、広く鰊(ニシン)漁やその貿易による経済力を背景に建築されたものを指すこともある(余市町教育委員会「史跡 旧下ヨイチ運上家環境整備事業報告書」17頁参照)[3]。そのため「鰊御殿」の定義はいまだ明確になっているわけではない[2]。 ニシン漁による繁栄により明治時代から昭和初期にかけて北海道日本海沿岸に建てられた、「鰊御殿」や「番屋建築」と呼ばれる大規模な木造建築を総称して「鰊漁場建築」ということがある[4]。 鰊番屋番屋(鰊番屋)の建築、典型的な鰊漁家特有の平面構成は、土間を挟んで親方の居住部分と漁夫の生活部分からなる[5]。 概説一般的には、雇漁夫居住部分である「ダイドコロ」と呼ばれる柱のない大空間がある[4]。明治30年代の建築とされる木村家住宅(北海道石狩市濃昼)や旧白鳥家住宅(石狩市浜益)は、いずれも「ダイドコロ」と呼ばれる大空間と隣接する土間である「ニワ」をもち、外壁は下見板張りとなっている[4]。 鰊漁場建築については、1970年から71年にかけての民家緊急調査報告書の普及版『日本の民家調査報告書集成 1 北海道東北地方の民家』がまとめられており、積丹半島以北の建築では「ダイドコロ」の発達と下見板張りの簡素化がが指摘されている[4]。 屋根については、木村家住宅では柾葺の上に板金葺、旧白鳥家住宅では鉄板葺と異なっている[4]。また、木村家住宅では採光のため屋根に越屋根があり、旧白鳥家住宅では望楼が設置されている[4]。 入江の崖を背にして配置された建物も多く、建築時には船や山道以外からはアクセスできない場所に建てられることも多かった[4]。旧白鳥家住宅のように海岸線に平行して建てられることが多かったが、木村家住宅のように入江の奥まった場所に建てられている例もある[4]。 構成
鰊番屋以外の建物広く鰊(ニシン)漁やその貿易による経済力を背景に建築されたものを指すこともあり、国の史跡「旧下ヨイチ運上家」も松前藩が領地内約80カ所に設置した交易上の施設の一つであるが「鰊御殿」と称されることがある(余市町教育委員会「史跡 旧下ヨイチ運上家環境整備事業報告書」17頁参照)[3]。 北海道寿都町に残る橋本家邸宅も「鰊御殿」と称されているが、漁家ではなく「仕込屋」と呼ばれる網元や漁師に金融を行った商家である[1]。 また、山形県遊佐町の国指定重要文化財「旧青山本邸」も番屋ではなく、北海道の鰊漁で成功した青山留吉が故郷に建築した建物である[6]。 鰊御殿と称される建物公開複数の鰊御殿が文化財や商業施設として復元されている。( )内は現在の施設名。
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鰊御殿の名を用いた商品脚注
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