魚沼神社
魚沼神社(うおぬまじんじゃ)は新潟県小千谷市土川2丁目にある神社である。境内には、国の重要文化財の阿弥陀堂がある。 祭神歴史創建は崇神天皇の時代と伝えられている。魚沼神社という名は平安時代からあり、『延喜神名式』にも魚沼郡の神社5社が記され、その中に「魚沼神社」もあるが、当神社と一致するか否かについては江戸時代以来諸説がある。戦国時代には、彌彦神社(弥彦村)と祭神が同じことから「上弥彦神社」と呼ばれ、上杉謙信の時代の史料にも「上弥彦大明神」とあり、拝殿にも「彌彦大明神」の額が掲げられている。越後国一宮である弥彦村の彌彦神社に対し、当神社を「二の宮」と呼び、この地域の人々の信仰の中心となった。「魚沼神社」と称したのは幕末頃で、式内社であるという確証はない。現在の土川に移る前は上ノ山にあった。
境内鳥居は、両部鳥居。手水舎の隣には、小川の横に御手洗場と見られる石段がある。拝殿に向かって左側に阿弥陀堂、右側に神楽殿、右斜め前には日露戦役記念碑が建てられている。本殿の脇には、神輿舎、祠がある。
境外末社主に茶郷川流域に18末社がある。
伝説上杉謙信と神軍上杉謙信が関東へ出陣する際は、小千谷で信濃川を渡っていた。その小千谷を通るたびに、この魚沼神社に参りに来ていた。ある時、社殿で戦勝祈願の儀式を済ませて拝殿に立つと、遥か彼方に天香語山命と18末社の神々が関東に向かっている姿が見えた。関東の戦いの最中にも神の御旗が現れ、大勝利を抑えた。越後国に帰ると、謙信は本社に100余貫文の年貢の上がる土地、18末社にもそれぞれ1町8反の土地を寄進した。 神に救われた兵第二次世界大戦中、中国大陸を転戦している軍曹がいた。暗闇の夜に、部隊の一番後ろを歩いていると、疲れでよろめいた拍子に道脇の空井戸に落ちてしまった。すると、上から明かりが射し、白い着物の白髪の老人が現れ、提灯を掲げ、縄を下ろされた。井戸から出ると、老人は「ついて来なさい」と言い、歩き出した。道を照らす提灯には「上弥彦神社」と書かれていた。部隊が居る所に着くと、老人はいなくなっていた。 婆っ貝信心深いお婆さんがいた。親類の婆さんが長患いで寝ているのを気の毒に、毎日、魚沼神社へ早く治るように祈りに来ていた。ある夜、夢に白装束の神が現れ、「毎日、神社の後ろの田から婆っ貝(カラスガイのこと)を採り、親類の婆さんに食べさせれば病気は治る」と言った。次の日から婆っ貝を採って親類の婆さんに届けた。すると、一月ほどで婆さんは病気が治り、前よりも元気になった。 大木様神社の倉庫の裏に「大木さま」という大きな杉の木があった。老木になり、嵐で倒れてしまうと、木の先が上ノ山の麓まで届き橋の様になった。その木で神主は神像を作った。神社の裏にも「大木さま」に負けないほどの大木があった。この木が倒れて、先がとどいた所はいまでも小字で杉崎という地名で残っている。 一杯清水善光寺街道が通る上ノ山の山際を通っていた頃、道脇に水が沸いていた。あまりにも冷たく、一杯で喉が潤い、「一杯清水」と言われる。また、盗賊が一杯清水の脇に潜んでいて、旅人が2杯目の水を飲もうとすると持ち物を盗む為、1杯しか飲めなく、「一杯清水」になったともいわれている。 文化財重要文化財(国指定)新潟県指定文化財
小千谷市指定文化財
参考文献
脚注関連項目外部リンク
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