高階成章 (公卿)
高階 成章(たかしな の なりあき)は、平安時代中期の公卿。春宮亮・高階業遠の四男。官位は正三位・大宰大弐。 経歴三条朝で主殿権助や春宮・敦成親王の蔵人を務める。長和5年(1016年)敦成親王が即位(後一条天皇)すると、成章は六位蔵人に補せられて式部少丞を兼ね、翌長和6年(1017年)巡爵により従五位下・筑後権守に叙任された。 寛仁3年(1019年)紀伊守に遷り、万寿3年(1026年)治国の功労により従五位上に叙せられる。この間の治安元年(1021年)には平安京の南の東寺近くで、敦明親王(小一条院)の従者から虐待を受けている。成章は従者に頭髪を掴まれて地面に這いつくばらせられ、四方八方からさんざんに蹴飛ばされる暴行を受けた。そのため成章の衣服はボロボロになってしまった。なお成章は敦明親王が紀伊国に所有する荘園に関連してかねてより院から恨みを買っていたという[1]。万寿4年(1027年)春宮・敦良親王の春宮大進に任ぜられる一方で、肥後守・太宰大弐と九州の地方官を兼ね、長元9年(1036年)敦良親王の即位(後朱雀天皇)に伴って正五位下に昇叙された。 長暦元年(1037年)今度は春宮・親仁親王(のち後冷泉天皇)の春宮権大進に任ぜられ、このころ近江守を兼ねるが、長久3年(1042年)従四位下・主殿頭に叙任され、親仁親王の即位を見ないまま春宮権大進を去っている。その後は、長久5年(1044年)阿波守、永承4年(1049年)伊予守と四国地方の国司を歴任。また、妻の藤原賢子(のち大弐三位)がかつて親仁親王の乳母を務めていたこともあってか、後冷泉朝にて永承5年(1050年)従四位上、永承6年(1051年)正四位下と昇進を続けた。 天喜2年(1054年)大宰大弐に任ぜられて再び九州に下向すると、翌天喜3年(1055年)赴任を賞して従三位に叙せられ、高階氏の氏人としては大伯父の高階成忠以来約70年ぶりに公卿に昇進した。天喜6年(1058年)正月に常寧殿造営の功労により正三位に至るが、同年2月6日薨去。享年69。 人物地方官を歴任して蓄財し欲大弐と呼ばれた[2]。勅撰歌人として『後拾遺和歌集』に1首の和歌作品が採録されている[3]。 官歴注記のないものは『公卿補任』による。
系譜
妻の藤原賢子(藤原宣孝と紫式部の間の娘)は、大弐三位として知られる歌人である。賢子は幼少期の後冷泉天皇の乳母を勤めており、天喜2年(1054年)後冷泉天皇の即位とともに[要出典]賢子は従三位に昇叙し、夫の成章も大宰大弐に就任した。「大弐三位」の名はこの際の夫の官職「大宰大弐」と賢子自身の位階「三位」を合わせたものである。この二人の間に生まれた高階為家は、のちに後冷泉天皇の落胤を養子としている。 脚注参考文献 |
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