高野寺 (高知市)
高野寺(こうやじ)は高知県高知市本町二丁目に所在する高野山真言宗寺院。板垣退助の生誕地である[1]。 概要幕末の頃、高野山金剛峯寺塔頭上蔵院が焼失。焼失した堂宇を復興するために、院主であった原信頂和尚は諸国を巡錫していた。その折、廃仏毀釈により荒廃した土佐の仏閣の惨状を目にし、寺院建立を発願する。 明治10年(1877年)、板垣退助は生家を離れ潮江村潮江新田に転居した。この為、生家は空き家となり、立志学舎の校舎として使われたが、立志学舎は程なくして京町へ移転した。明治14年(1881年)4月、原信頂はこの板垣退助の生家を買い受け、高野山出張所の建設を開始[2]。 昭和12年(1937年)、境内に板垣退助の精神を顕彰する板垣会館を建設。上棟式には第32代横綱・玉錦三右エ門、4月6日落成式には頭山満、板垣退助長女・片岡兵子らが出席した[1]。 昭和20年(1945年)7月4日の空襲により焼失したが、昭和39年に再建された。 かつては四国八十八箇所の番外札所として紹介されたが、今日では四国遍路との関連で言及されることは希である[3]。 場所の歴史土佐藩政期に板垣退助(乾家)の邸宅であったが、板垣が高知市潮江新田へ居を移した後、明治10年(1877年)、立志学舎が九反田の旧開成館からこの場所へ移った。この立志学舎は慶応義塾から教員を招聘し、英学を中心とした教育を行い、「関西の慶応義塾」とも呼称された[4]。 板垣退助の顕彰昭和12年(1937年)4月6日、第4世住職・谷信讃の発願による『板垣会館』が建設された。高知大空襲によって本堂、伽藍もろとも焼失したが、板垣退助の命日にあたる7月16日は、板垣の歿後一年も欠かすことなく法要が営まれている[1]。 平成30年(2018年)7月16日、明治維新150年・板垣退助第百回忌法要が挙行され、高知市長・岡崎誠也、板垣退助子孫、NPO法人板垣会、一般社団法人板垣退助先生顕彰会ほか、無双直伝英信流居合術の関係各位らも列席のもと挙行された[1]。 境内
出典
参考文献
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