高田保馬
高田 保馬(たかた やすま、1883年(明治16年)12月27日 - 1972年(昭和47年)2月2日)は、日本の経済学者、社会学者、歌人。文化功労者。京都大学、大阪大学、大阪府立大学各名誉教授。 経歴1883年(明治16年)12月27日、佐賀県小城郡三日月村(現:佐賀県小城市三日月町)遠江に生まれた[1]。1897年(明治30年)3月、三日月村晩成小学校を卒業。佐賀県立佐賀中学校[2]に進み、1902年(明治35年)3月に卒業した。第五高等学校第一部に入学し、1907年(明治40年)7月に卒業した。1907年、京都帝国大学文科大学哲学科に進み、米田庄太郎に師事した。1910年7月に京都帝国大学を卒業し、同大学大学院に進学した。 1914年(大正3年)9月、京都帝国大学法科大学講師となる。1919年(大正8年)6月、 広島高等師範学校教授に就任。1921年(大正10年)6月からは東京商科大学教授。同大学教授時代の生徒には、白南雲(元朝鮮民主主義人民共和国最高人民会議議長、元ソウル大学校教授)[3]などがいた。同年12月に学位論文を提出して文学博士号を取得[4]。この頃より高田はマルクス経済学を批判し、河上肇と論争を行っている[5][6]。1925年(大正14年)5月、九州帝国大学法文学部教授に着任。1929年(昭和4年)5月、母校である京都帝国大学経済学部教授となった。1938年(昭和13年)2月からは同大学経済学部長を務めた。京都帝国大学では経済原論の講義を担当した[7]。戦時下の1943年(昭和18年)、経済哲学担当教授の石川興二が憂国のあまり陸軍批判をしたことが原因で休職すると、その後を引き継いで経済哲学の講義についても担当した[8][9]。また同年の1月には文部省所管民族研究所長にも就任している[10]。1944年(昭和19年)3月、京都帝国大学を退職した。 太平洋戦争後の1946年(昭和21年)に京都帝国大学名誉教授となったが、同年12月に京都帝国大学の教職員適格審査委員会より教職不適格者指定を受け、1947年(昭和22年)6月に中央教職員適格審査委員会より教職不適格者指定を受けた。1951年(昭和26年)6月に教職不適格者指定が取消されると、同年8月に大阪大学法経学部教授就任。1953年(昭和28年)6月より大阪大学法経学部長、同年8月より大阪大学経済学部長となった。1954年(昭和29年)3月に大阪大学経済学部附属社会経済研究室が開設されると、初代室長を兼任した。1955年(昭和30年)7月に大阪大学を定年退職し、翌年11月より名誉教授となった。大阪大学退職直後の1955年(昭和30年)8月より大阪府立大学経済学部教授として教鞭をとり、1957年(昭和32年)10月、同大学経済学部長に就任。1963年(昭和38年)3月に大阪府立大学を退職し名誉教授[11]。同年より1965年(昭和40年)まで龍谷大学経済学部教授を務めた。 受賞・栄典研究内容・業績「総合社会学」を否定し、独自の視点からジンメルの掲げた「形式社会学」の彫琢に努め、「勢力論」を提唱したことで知られる。経済社会学会は高田保馬賞(特別賞・奨励賞)を制定し、高田の名とともに会員による優れた業績を顕彰している[14]。 結合定量の法則「結合定量の法則」とは、人間が日常生活において取り持つ相互関係の量には定量があるとする仮説である。熱力学のエネルギー保存則を想起させるこの法則は、都市における人間同士の関係における「希薄さ」を数理モデルで説明しようとしたものであるが、社会学者であると同時に経済学者でもあった高田によってこそ、定式化が可能であった。 誇示的消費誇示的消費で需要曲線が右上がり(逓昇的)になる可能性を1930年に明白に指摘しており、これは1950年にハーヴェイ・ライベンシュタインが論文「Bandwagon, Snob and Veblen Effects in the Theory of Consumers' Demand」でバンドワゴン効果、スノッブ効果、ヴェブレン効果を提唱するよりも20年も先んじていた[5]。 労働者の生活水準、失業、ならびに社会について失業対策について、ケインズ経済学的な有効需要の創出政策を批判しており、労働者の生活水準(賃金)の引き下げを主張していた[15]。また人口減少対策として、都市階層に課税して農村に所得移転させる政策を主張していた[16]。高田は人口そのものを国力と捉え、農村を人口の供給源として重要視していた[16]。 高田は「失業や国の衰退は過度な消費が原因であるとしており、貧乏な生活が経済発展の基礎となる」と主張した[17]。それに対して天野貞祐は「高田の議論は生活が低ければ低いほど貢献しているということになり、低い生活は即ち道徳という意味に取れる。仮に社会的享受が少ないほど貢献しているとするならば、死ぬことが最大の貢献になることになる。貧乏そのものが道徳を意味するならば、社会は有識者の多さで苦しむことになる」と述べている[18]。貧しさが生産費を抑え、日本製品の国際競争力につながるという高田の主張について、天野貞祐は「貧者を利益の方便とする一部の人間が儲かるだけである」と批判している[18]。住谷悦治は「虚栄心を捨てれば貧困問題は解決すると言っているに等しい」と述べている[18]。 評価・影響アメリカ合衆国の経済学者M・ブロンフェンブレンナーは高田を「日本のマーシャル」と讃えている[5][19]。 歌人・文人として中学1年の頃から短歌や詩を作るようになり、同じ佐賀県出身の下村湖人の影響を受けるなどして研究の傍ら歌を詠み続け、生涯に3冊の歌集を著している(『ふるさと』『洛北集』『望郷吟』)[20]。『ふるさと』は郷里を中心に暮らしていたことから、1931年(昭和6年)から戦時下の1943年(昭和18年)までの短歌を収めた『洛北集』は京都市北郊(洛北)に住していたことから命名した。京都帝国大学進学後は、与謝野鉄幹・晶子夫妻が主宰する新詩社の門下となり、また帰郷時に佐賀県出身の歌人である中島哀浪と交遊した(『洛北集』自序)。 1963年(昭和38年)には宮中歌会始の召人に選ばれた[20]。 このほか佐賀県内の多くの学校の校歌の作詞も手がけている。 高田が生前に遺した言葉としては、例えば「志は朽ちざるに在り(学問する上で心に決めた目的をいつまでも亡びないようにする)」などが有名である。 著作
共編著
翻訳
記念論集自伝
脚注・出典
参考文献
関連項目外部リンク |