住谷悦治
住谷 悦治(すみや えつじ、1895年〈明治28年〉12月18日 - 1987年〈昭和62年〉10月4日)は、日本の経済学者。同志社大学名誉教授。同大学元総長。吉野作造門下。群馬県出身。 経歴群馬県群馬郡国分村(現・高崎市)生まれ[1]。前橋中、二高を経て、1922年に東京帝国大学法学部を卒業し、吉野作造の推薦により同志社大学法学部助手となる。1927年に同大学教授となったが[2]、1933年に治安維持法で逮捕され、職を辞す[1]。のち1934年に渡欧(1936年に帰国)[3]、1937年に松山高等商業学校(現・松山大学)教授[4]、1945年に夕刊京都新聞社論説部長、1946年に同社長、愛知大学法経学部教授。 1949年から同志社大学経済学部教授となり、1950年に経済学博士の学位を取得。1963年には同志社総長に就任する。1975年に退職。同大より1976年に名誉教授、1985年に名誉文化博士の称号を受けた。墓は京都市左京区の同志社墓地にある[5]。 人物二高在学中に叔父・住谷天来から受洗し、土井晩翠の影響を受けた[1]。東大法学部では吉野作造から民本主義を学び、新人会の活動に加わる。河上肇の著書に傾倒し社会主義に接近した[1]。また土民哲学を提唱したアナキストである石川三四郎を「生涯の先生」と慕い、交流を続けた[6]。 経済学史・社会思想史を専門とした。特に近代日本における社会思想史・社会主義運動史の研究で知られる。ジャーナリズム研究の先駆者でもある。住谷のジャーナリストとしての方法論の特徴は、現在の問題を過去の由来から批判的に検討する手法にある[7]。 ナチス・ドイツの失業対策について、住谷は「劣悪な環境下での公共事業など、強制労働に過ぎない」と指摘していた[8]。 天皇との身分階梯を前提とする教育制度・社会的風潮は、人々の間の差別意識を育てると主張していた[9]。 評価1939年の住谷の著作『リストの国家主義経済学』について、小林昇は「反理性的なナショナリズムが、この古典(フリードリッヒ・リストの著書『経済学の国民体系』)を利用することを退けている」と評している[10]。 家族・血縁日露戦争に反対して平和を訴えた住谷天来を叔父にもつ。弟に画家の住谷磐根[11]、社会学者で同志社大学教授、『満州日報』論説委員などを務めた住谷申一がいる。 経済学者で立教大学名誉教授の住谷一彦、社会福祉学者で同志社大学名誉教授の住谷磬は、いずれも悦治の子。 主著
共編著
翻訳
脚注
参考文献
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