高屋氏
高屋氏(たかやし)は、日本の氏族の一つ。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は高屋楯(現在の山形県寒河江市高屋)。 概要村山郡寒河江荘高屋[注釈 2]の地は山形から寒河江にいたる寒河江街道沿いにあり、西・南・東を最上川に囲まれた舌状の地形で、集落が形成された頃は南北およそ2.5km、東西1kmあまりの地域であった。集落は南から新屋敷(字西浦)・下屋敷・上屋敷で舌状地の東岸・旧河道に沿って湾曲しながら北東へ延びる。旧河道との比高差は約3mで、旧河道に沿って1kmほど北上すると本楯に至る。また、集落中央の熊野神社から西へ1kmほどで島(寒河江市島)集落(高瀬郷[1])および高瀬山へ至る。 高屋氏は高屋阿弥陀堂別当を寒河江氏5代元政の弟がつとめたのが初出である[注釈 3]。その後、元政の次子も高屋天神の別当を務めている[2]。高屋氏初代元詮(もとあきら)は寒河江氏9代元時の弟で、祖父大江時茂が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江・溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際に、高屋に配置された楯を居館とした。南北朝の対立が激しい時代には、南方の最上川対岸長崎は広大な湿地帯であり、東の高擶(現・天童市高擶)には敵対する北朝最上直家の子義直が配されており防衛上の要地であった。 しかし、応安元年/正平23年(1368年)漆川の戦いで大江氏が大敗すると、父大江時氏は兄元時を鎌倉に人質に出し北朝への服従を誓った。9か年の人質生活を終え、16歳で兄が帰還[3]して後元詮も高屋に移り住んだと思われる。当初高詮が築造した楯は最上川の川欠けにより移動があったという[4]。彼の子孫らは主計頭や掃部頭として寒河江氏に仕えた。6代知政は寒河江宗広の娘を娶り子息孝政は溝延広勝の養子となった。 天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏の攻撃により滅びると8代知久も自害して高屋氏は途絶えた。 なお、高屋氏譜代の家臣として紀州出身の武田氏がいたことが知られる[5]。 集落の移転「寒河江町誌」によれば、高屋天神の参道は東に伸びており、鳥居もまた東側に存するのは、もともと高屋集落が現在地より東にあり、最上川の氾濫により2回の移動を余儀なくされたと考察している。第1期は天神社の東方500メートルの字元屋敷から天神社付近の中屋敷へ。第2期には中屋敷から現在の上屋敷への移動である。現在は段丘上に集落が存している。 系図『天文本大江系図』[6]
脚注注釈出典
参考文献 |