高家寺
高家寺(こうけじ)は、岐阜県各務原市那加北洞町[1]にある高野山真言宗の密教寺院。 歴史など開山
開基戸田松平家は、譜代として初めて松平の名字を許される。徳川家康の異父妹松姫(久松俊勝と於大の方の娘)を藩祖戸田康長が娶ったためであった。康長と松姫には長男・永兼が居たが早世した。康長には妾腹の次男に忠光、三男に康直がおり、忠光が後継者であった。彼は2代将軍徳川秀忠と3代将軍徳川家光の両方の偏諱を授かっているほど、期待された人物であった。忠光には妾腹の松平光重と正妻の子の女子がいた。ところが、忠光は父・康長に先立って亡くなる。そのために忠光の弟の康直が跡を継いだ。康直には子がおらず、忠光の子である光重が跡を継いだ。この光重の妹であり、忠光の正室の長女であったのが二の丸殿である[3]。 その後、戸田松平家は公卿の羽林家の一つである今城家と、何代にもわたり婚姻関係を結ぶ。戸田家は三大臣家である正親町三条家の支流である。家紋の1つに戸田連翹(とだれんぎょう)を用いる。これは正親町三条家の家紋である連翹襷(れんぎょうだすき)の変形で、高家寺の寺紋はこの戸田連翹である。寺伝では、この大臣家正親町三条家の支流であるために「高家」を名乗ったとされる。高家とは元々は貴族を意味していた[4]。 高家寺の境内は江戸初期の中山道の地図上に、本堂・観音堂・摩利支天鎮守堂の挿し絵で確認される。寺領は425坪程度で現在の岐阜駅のすぐ南にあった。江戸期に盛衰あり、加納藩主安藤信成の時、その藩政に問題がありお家騒動が発生し、安藤家は陸奥磐城平藩に減転封され、永井家に代わった1756年以降の高家寺の記録は散失した。ただし、灯籠が何本もあり、荒寺であったわけではないことが確認される。 江戸時代の尾張藩明倫堂の学者の日記録によれば、寛政年間に大阪に弘法大師像の出開帳を行った。その際に、信心少なきものばかりで、空を飛んで元のお堂に戻ってしまったという伝説があった(現存の厄除け大師)。江戸の末期でも21日は弘法市が出て賑わっていた記録がある。美濃三弘法の第二番であったという(石柱が現存)。また不動明王像は、加納藩の罪人を捕縛したさいにこの像の前で虚言をはくと金縛りにあうため「金縛り不動」といわれていた(戦災で焼失)。 明治時代、岐阜駅を創る際に移動させられ、その移動先も太平洋戦争の戦火により全焼した。仮堂のままであったものを、岐阜駅前の開発に伴い岐阜市鷺山に仮移設し、その後、平成5年(1993年)に現在地に移転した。 仏像昭和31年(1956年)、篤信家の手により銀杏弘法大師[5]。
現在の境内
関連項目脚注 |