松平忠光
松平 忠光(まつだいら ただみつ)は、江戸時代初期の戸田松平家の世嗣。 生涯慶長17年(1612年)、徳川秀忠に初御目見して元服・叙任。備前国一文字の刀と「忠」の偏諱を授かり、松平忠長と称す。のちに忠光と改める。大坂の陣には父と共に、今福の戦いや天王寺口の合戦に参戦した。元和5年(1619年)に異母兄の永兼が没したため、嫡子となる。 元和9年(1623年)に3代将軍・徳川家光の上洛に従い、参内の守衛となる。寛永3年(1626年)、再び家光上洛に随行し、後水尾天皇の二条城御幸の守衛に当たる。 父・康長は松本藩領安曇郡大町組、池田組、松川組の計1万5000石を忠光に分知させ、支藩として立藩させる計画で、元和5年、千国街道池田宿に若松城の築城が起工されたが、家督を相続することなく寛永6年(1629年)に早世したため沙汰止みとなった。享年32。代わって異母弟の庸直が嫡子となり、康長の跡を継いだ。庸直が早世すると、忠光の遺児の光重がその跡を継ぎ、戸田松平家は以後、光重の血筋で続いた。 系譜参考文献
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