駒井徳造駒井 徳造(こまい とくぞう、1932年3月31日 - )は元トムス・エンタテインメント会長。大阪市出身。 経歴
人物任天堂は1980年に携帯型ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売し過去の借金を帳消しにするほどの売り上げを記録。その利益を元手に、アーケードゲームを家庭で再現できる新しい家庭用テレビゲーム機・ファミリーコンピュータの開発に着手。家庭用テレビゲーム機のハード及びソフト開発にアーケードゲームの開発者を担当させたために、任天堂のアーケードゲーム事業は急速に縮小していく。アーケードゲーム機器の販売会社である任天堂レジャーシステムの取締役営業部長を務めていた駒井は1981年新春にアーケードゲーム業界の展望を業界紙に寄稿していた[9]が、社長の山内溥(当時)の「アーケードはもうやめや」の声でアーケードゲーム事業の撤退が決まり、それに駒井は反発した[要出典]。 1982年8月31日に任天堂レジャーシステムを退社、翌9月1日にセガ・エンタープライゼスに入社し顧問に迎えられた[1]。同年9月6日の記者発表会にて、記者から「任天堂からのスカウトなのか」と問われたセガ・エンタープライゼス副社長の中山隼雄と駒井はスカウトを否定しつつ、中山はアーケードゲーム業界にスムーズに参入した任天堂に倣って、家庭用分野にスムーズに参入するために駒井の手腕に期待していると述べた[1]。 1982年9月29日には常務取締役に就任、コンシューマー・マーケット部門の担当となり、コレコが開発したコレコビジョンに関する業務をするのではないかと報道された[3]。 1983年にはセガ初のコンシューマーゲームであるSC-3000[10]に携わったことでセガのコンシューマー事業が始まった[11]。そしてSC-3000からゲーム機に特化したものとしてSG-1000が作られた[12]が、発売の際は駒井によって任天堂が開発していたファミリーコンピュータの販売価格がセガ側に伝えられ、その価格を基にSG-1000の価格が決められたとされている[13]。 その後セガから転じて、1992年にセガの傘下に入った東京ムービー新社の会長に就任[2]、東京ムービー新社がキョクイチに吸収合併された後はキョクイチの社長および会長に就任した。 2004年のトムス・エンタテインメント取締役会長当時、読売新聞中部支社でのインタビューにて駒井は、中部地方はハード面は強いがソフト分野に弱く[14]、「経済界の方と話していても、異業種というか、違う分野だと感じる」と語っている[15]。 担当作品テレビ映画
OVA
脚注出典
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia