館柳湾館 柳湾(たち りゅうわん、宝暦12年3月11日(1762年4月5日) - 天保15年4月13日(1844年5月29日))は、江戸時代後期の日本の漢詩人・書家である。 本姓は小山氏、養子となって館を名乗る[1]。名を機、字は枢卿、通称を雄次郎。柳湾の号は、故郷である信濃川河口の柳のある入り江に因んでいる。別号に石香斎・三十六湾外史などがある。 略歴新潟(現新潟市上大川前通)の廻船問屋小山家の次男として、父弥右衛門、母八重の間に生まれる[注釈 1]。少年期には儒医高田仁庵に『詩経』『書経』などを学ぶ。早くに両親を失ったため、巻村にあった質屋の館徳信の養子となる。 1784年、江戸に出て亀田鵬斎に学んだ後、代官の手代となる[1]。成人後、旗本の小出照方の家臣となる。1787年、恩師の高田仁庵の姪 佳輿(かよ)を娶り、長女梅が誕生するも、後に佳輿は病死。柳湾は佳輿の妹順を後妻とし、2男2女を授かる。1798年、大典顕常に出会い、翌年、小出照方の計らいで昌平黌の林述斎に入門する[2]。1800年、小出照方が飛騨郡代となり、彼に同行して飛騨高山に赴任する[2]。翌年、小出とともに江戸に戻る。赤田臥牛の還暦に詩を贈る。 1827年、致仕した後、新潟へ里帰りを果たす。80歳の傘寿を祝いには、両国の万八楼に千人の来賓が集ったという。1844年、目白台の自宅にて歿す。墓は長源寺にある。 人物柳湾は、温厚な性格で寡黙であり[3]、色白で背が高く、酒を嗜むことなく一日に一升の飯を食べたという。実直な役人として上司の信任が篤く加えて領民思いだった。師の亀田鵬斎が寛政異学の禁のためほとんどの門弟を失ったが、柳湾はその後も師弟の関係を続けていることから義に篤い人物だったと思われる。最も詩と書に巧みだったが、和歌と篆刻も好んだ。中井敬所の『日本印人伝』にその名が見える。多くの著作を刊行し、江戸庶民の人気を博した。同じく幕臣で漢詩人であった岡本花亭と並び称され[4]、詩人として順風満帆で幸福な人生を送った。息子の館霞舫は画家となっている。 詩風・詩業当時の詩壇の趨勢は、大振りで華やかな唐詩から写実的で清新な宋詩へと流行が移り変わろうとする時期であったが、その中において柳湾は中晩唐の高雅典麗な詩風を好み、絶句集をさかんに刊行した。杜牧、温庭筠、李商隠、韓偓などの影響がみられ、平易で澄明な詩風が大いに人気を博した。 在世時から柳湾は、中晩唐の詩を愛し、自身の詩を錬磨してやまない詩人として知られていたが、岩渓裳川や阪口五峰によって、柳湾の情趣豊かで洗練された詩が喧伝され、その名声はますます上がった[2]。その後、永井荷風は柳湾の平明な詩を評価し、柳湾の詩人像の理解に新たな展開をもたらした[2]。荷風は柳湾の詩を「江戸名所の絵本をひらき見るの思あり」とし、近代フランスの叙情詩に匹敵すると『葷斎漫筆』の中で絶賛している[5]。 辺縁の地を嫌い、早くから江戸に出た柳湾であったが、山国飛騨高山に赴任し、一時は生涯をその地に終える覚悟であったらしい。飛騨の山河を詠んだ美しい詩が遺されている。
交友刊行出版
参考文献関連文献
注釈脚注
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