椿椿山椿 椿山(つばき ちんざん、享和元年6月4日(1801年7月14日) - 嘉永7年7月13日(1854年8月6日))は江戸時代後期の日本の文人画家である。江戸小石川天神に生まれる。主に花鳥画、人物画を得意とした。 名は弼(たすく)。字は篤甫(とくほ)、通称を忠太、亮太。号は椿山の他に、琢華堂(たくげどう)、休庵、四休庵(しきゅうあん)、春松軒、碧蔭山房(へきいんさんぼう)、羅渓、琢華道人(たくかどうじん)。 生涯旗本槍組同心・椿嘉左衛門定重が54歳のとき、二男二女の末子として江戸に生まれる。椿山7歳の時、父と死別。長じて世襲制であった槍組同心となり、兵学(師は平山行蔵)・槍術・居合(片山流抜刀法)・馬術などの武術を習得した。 同心勤務をしながら、微禄を補うために画を志した。はじめ金子金陵に就いて沈南蘋風の花鳥画を学んだが、金陵が死没してしまい、その師・谷文晁に一時入門する。17歳の頃、同門の渡辺崋山を慕い崋山塾に入門。崋山を終生の師とする。はじめ椿山は同門の者から不器用といわれたが、画の修業を怠らずたいへんな努力をした。これを知った崋山は「後に必ず名をなすだろう」といったという。早い時期に槍組同心を辞職し、画業と学問に専念する。 師・崋山の作風をよく受け継ぎながらもその作風は柔軟な筆遣いと温和な彩色に特質がみられる。花鳥画・虫獣画・人物画に名品が多い。また俳諧・煎茶にも通じ、笙の名手としても知られる。 椿山は穏やかで誠実な人柄であり寡黙であった。友人からは「飯少なく、遊少なく、眠少なく、言葉少なく、磨墨少なく、着筆少なく、彩色少なく、酒を飲まず、女に近付かず、煙草を喫せず、故に十少と称す」と評されていた。 親孝行で知られ年老いた母を孝養で報いた。子弟の情宜にも篤く崋山が蛮社の獄で捕らわれた際には、救済運動の中心となり奔走した。崋山自刃後は弟弟子の福田半香・平井顕斎らとともに献身的に遺族の後見をし、崋山の二男・小華を弟子に迎え養育して後に養女の須磨を娶らせた。また密かに田原まで亡き崋山の墓参をしている。 享年54。東京都新宿区の円福寺、港区青山霊園に墓と碑がある。 椿山の息子・華谷(恒吉)は崋山に入門して豊かな才能を示していたが椿山に先立つこと4年の嘉永3年(1850年)、わずか26歳で夭折し跡を継ぐことができなかった。 画業師・崋山の教えである写生を重視しつつも中国明末清初の画家・徐崇嗣、惲寿平、張秋穀などの着色花鳥画の伝統技法(没骨法、たらし込み)を取り入れ崋山の画風を発展させ、写意と装飾性をもつ独自の様式を完成させた。晩年に及んで、神妙の域に達し超俗洒脱の趣のある作品を遺している。 代表作の「渡辺崋山像」は崋山45歳のスケッチを元に没後3年目に画稿を描き、13回忌にあたる嘉永6年(1853年)10月にようやく完成した。崋山伝授の洋画の陰影法に加え闊達な線描、淡雅な彩色を融合して肖像画の心象表現(写意)に新味を加えた傑作とされる。 私塾琢華堂には延べ373名の弟子が入門。[1]武家だけではなく商人や女性にも門戸を開いていた。ただし大酒飲みは入門を許されなかったという。はじめ学問・素読・居合・書画を教えたが弘化2年以降は画塾となった。 崋山・椿山の画の系統を特に「崋椿系」と称する。 門弟交遊代表作
脚註
参考文献
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