飯島庸一飯島 庸一(いいじま よういち、1964年6月19日 - )は、S-CHALLENGE Traininng Programu Works代表として活動するフィジカルトレーナー。 神奈川県鎌倉市に生まれ、三歳で千葉県に転居。そのメソッドは、スキー、スノーボード、ゴルフ、サーフィン、トライアスロンなどの競技を中心に、トップアスリートだけではなくパーソナルプログラムやワークショップなどを通して幅広いユーザーに展開している。 経歴念願の日本体育大学ラグビー部に入部するも大きな怪我(腰椎分離および腰椎すべり症)に見舞われ、4ヶ月の入院生活に。8ヶ月におよぶリハビリをするも、元のフィジカルレベルに回復出来ず退部を決意。大学2年時に六日町八海山スキー場で行われたスキー実習で、スキーを初体験。スキーの難しさと奥深さに魅了され、大学3年次にスキー学のゼミを専攻。「諸外国のスキーコンディショニングの比較研究」に興味を持ち、自らの大きな怪我の経験とスキーをジョイントさせて、『スキーコンディショニング』というものが職業に出来ないか模索をはじめる。当時日本ではトレーナーという言葉は一般的では無かったが、怪我で断念したラグビーに代わり、新たな目標となる。 大学卒業後、トレーナーを目指し、フィットネスクラブ(住友不動産フィットネス株式会社:ノーチラスクラブ)に入社。マシンコーチ、マシンヘッドコーチとして各店舗スタッフへの研修業務をこなしつつ、北海道日本ハムファイターズ全選手のコンディショニングサポートを担当。多忙な毎日の中でも『スキー選手のトレーナー』という目標は持ち続け、1988年12月に依願退社。そのシーズンを長野県斑尾高原スキー場「小滝アメリカンスキースクール」の常勤教師として過ごす。 トレーナー関連の発達が遅い日本ではなく、海外で経験を積むことを考え、1989年ニュージーランドに自費留学。同年、ニュージーランド・ナショナルスキーチームのスーパー大回転選手であるジェーン・ブレア選手のプライベートトレーナーとして契約。プロトレーナーとしてのキャリアをスタートさせる。クイーンズタウンのホテル「THC」契約トレーナーとして活動中、サロモン SKINOW(スキーナウ)で転倒した海和俊宏のケアを依頼され、それが縁で翌年よりサロモンチームのサポートをすることになる。 1991年、サロモンスポーツ株式会社・サロモンスキーチームとフィジカルトレーナー契約。当時、SALOMON SKINOW(スキーナウ)のデモンストレーター、渡辺一樹、斎木隆、我満嘉治、伊東秀人、五藤伯文、伊藤真紀子、上原由、山崎操らのトレーナーとして、また、アルペンスキーでは、佐々木明、吉岡大輔、工藤昌巳、皆川賢太郎、武田竜、柏木義之、生田康宏、高瀬慎一、輪島千恵、沖聖子などの、モーグルでは里谷多英のトレーナーとして活動。 1993年、S-CHALLENGE Training Program Works を設立。 翌年には財団法人全日本スキー連盟 全日本スキーチーム 男子ジュニアチームコンディショニングコーチに就任し、多くの世界大会へ帯同。同時に大学や高校のスキー部、スキー連盟の強化サポートにも力を入れる。また、スキー以外でも講演や学校の講師など幅広い活動を展開。2007年にはアメリカ合衆国ハワイ州に S-CHALLENGE Works, Inc. を設立。 資格[1]
関連情報[2]アルペンスキー世界ジュニア選手権帯同1995年(シュバイツ)/1996年(オーストリア)/2002年(プリアンソン)/2004年(マリボー)/2007年(ケベック) 冬季ユニバーシアード アルペンスキー日本代表チーム帯同1999年冬季ユニバーシアード(ポプラド)/2001年冬季ユニバーシアード(ザコパネ)/2003年冬季ユニバーシアード(タルヴィジオ)/2009年冬季ユニバーシアード(ハルビン)/2011年冬季ユニバーシアード(エルズルム) 大学・高校スキー部
各県(スキー連盟など)
プログラムサポート(プライベート)スキーヤー
スキージャンプ
アルペンスノーボーダー
プロゴルファー
著書
トレーニング監修
共著
CM
外部リンク脚注 |
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