韋敻

韋敻(い けい、502年 - 578年)は、北魏末から北周にかけての隠者は敬遠[1][2]本貫京兆郡杜陵県[3][4]

経歴

北魏の武威郡太守の韋旭の子として生まれた。質朴を尊び、栄利を求める意欲に乏しかった。弱冠にして雍州中従事として召されたが、その仕事を好まず、病と称して職を去った。前後10回にわたって召命があったが、韋敻はいずれも応じなかった。西魏宇文泰も使者を派遣して召し出そうとしたが、韋敻は誘いに乗らなかった。その居宅のそばには林や泉がつらなり、韋敻は琴や書に向き合って楽しみ、ひっそりと暮らしていた。当時の人は韋敻のことを居士と呼んだ。そののどかで素朴な暮らしを慕う者が、あるいは酒を携えて訪れると、韋敻は歓を尽くして、接待に倦むのを忘れた[1][2]

557年、北周の明帝が即位すると、韋敻に詩を贈った。韋敻が明帝の詩に答えて、参内して拝謁したいと願い出ると、明帝は大喜びし、韋敻に河東の酒1斗を賜り、逍遥公と号させた[5][2]

ときに宇文護が政権を握り、広壮な邸宅を営んでいた。宇文護は韋敻を宅に召し出し、政治について諮問しようとした。韋敻は邸宅の堂を仰ぎみると感嘆して、「酒を楽しんで音立ててすすり、軒の高い家の垣には文様が彫られている。このようなところは唯一で、滅ばないことはあるまい」といった。宇文護は喜ばなかった[5][2]

南朝陳がその尚書周弘正を使節として北周に派遣してくると、周弘正はもとより韋敻の名を聞いていたので、会見したいと願い出た。朝廷はこれを許可した。周弘正は韋敻のところにいたると、一日中談笑し、めぐり会うのが遅かったことを恨みとした。後に周弘正は韋敻に賓館に来てもらうよう要請したが、韋敻は折悪く赴けなかった。そこで周弘正は詩を贈って「木星(賢者)がまだ動かないのに、真の車が肯いて来ることがあろうか」といった[5][6]

北周の武帝はあるとき韋敻を夜の宴に招き、大量の絹を与えようとした。韋敻は1匹だけを取って、恩を受けたことを示した。武帝はこのためますます韋敻を重んじるようになった。弟の韋孝寛延州総管となると、韋敻は延州に赴いて韋孝寛と会った。韋敻が帰るにあたって、韋孝寛は乗馬とくつわを韋敻に与えようとした。韋敻はその派手なことを心中嫌って、「古きを捨てて新しきを録るは、また我が志にあらざるなり」と笑っていい、古い馬に乗って帰った[5][6]

武帝は韋敻に命じて仏教道教儒教の優劣を論じさせた。そこで韋敻は『三教序』を著して上奏した[5][6]

韋敻の子の韋瓘は行隨州刺史をつとめていたが、病のため物故した。また韋孝寛の子の韋総が并州で戦没した。1日のうちにふたつの凶報が届いて、家人たちは互いに悲しみ嘆いたが、韋敻は平然としていた。「死生は天命であり、常の事として去来するものである。またどうして悲しむに足りようか」と家人たちにいって、いつものように琴を撫していた[7][6]

578年(宣政元年)2月、家で死去した。享年は77[7][8]

子女

脚注

  1. ^ a b 周書 1971, p. 544.
  2. ^ a b c d 北史 1974, p. 2269.
  3. ^ 周書 1971, p. 535.
  4. ^ 北史 1974, p. 2259.
  5. ^ a b c d e 周書 1971, p. 545.
  6. ^ a b c d 北史 1974, p. 2270.
  7. ^ a b 周書 1971, p. 546.
  8. ^ 北史 1974, p. 2271.

参考文献

  • 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 

伝記資料

 

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