阿部眞之助阿部 真之助(あべ しんのすけ、旧字体:眞之助、1884年(明治17年)3月29日 - 1964年(昭和39年)7月9日)は、明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト、政治評論家、随筆家。筆名は野山草吉[1]。 東京日々新聞主筆、日本エッセイスト・クラブ初代理事長、第9代NHK会長を務めた。 恐妻家を自称していることで知られ、「恐妻会」会長を名乗ったとされるが、阿部の著書『恐妻一代記』(文藝春秋)によると、友人の大宅壮一が群馬県の青年団と会った時に、「東京に恐妻会という組織があり、阿部が会長だ」という話を創作したもので、そんな組織はないし、自分で名乗った覚えもないという。「恐妻とは愛妻のいわれなり」との名言を残した。日本における「小さな親切」運動の草分けの一人でもある。 人物1884年、埼玉県熊谷市に生まれ[2]、少年時代は群馬県富岡市で過ごす。 旧制群馬県立富岡中学校、旧制第二高等学校卒業[3]。1908年(明治41年)に[2]東京帝国大学文学部社会学科を卒業。 東京帝大卒業後、満州日日新聞社に入社[4]。1911年(明治44年)ストライキを首謀したとして馘首[5]。同1911年(明治44年)、東京日日新聞に入社[4]。1914年(大正3年)に大阪毎日に転じ、1929年(昭和4年)東京日日に戻る[2]。その間、名古屋支局長[6]、京都支局長、社会部長[7]、政治部長、学芸部長、編集局主幹、取締役主筆、毎日新聞社顧問ほかを歴任[4]。 1933年(昭和8年)東日学芸部長時代に[8]、菊池寛を学芸部顧問に、久米正雄・横光利一・吉屋信子・大宅壮一・高田保・木村毅・三宅周太郎を学芸部社友とした[9]。 1934年(昭和9年)、やはり学芸部長時代に、囲碁及び将棋の「実力名人戦」を企画し、1935年(昭和10年)から将棋名人戦、1939年(昭和14年)から囲碁本因坊戦が開始(なお、本因坊戦開始にあたっては、阿部の部下であり後のパリーグ理事長の黒崎貞治郎が担当)[10]。 やはり学芸部長時代に、女性作家・書家の交流団体「東紅会」を創り、メンバーは、長谷川時雨、野上弥生子、真杉静枝らであった[11]。 1938年(昭和13年)、阿部が編集局主幹となった際[12]、学芸部長には久米正雄が就任[13]。 1944年定年退職[14]した後、政治評論家として活動する他、明治大教授、中教出版社長、NHK経営委員長など歴任[2]。大宅壮一がその文章を「マクラの阿部真之助、オチの高田保」と評したのは有名[15]。その大宅壮一も含めて、「マクラの真之助、サワリの壮一、オチの保」と言われたこともあるという[16]。 1953年に日本エッセイストクラブを創立して会長になる[2]。1955年、「自由且つ気骨ある政治評論家として、民衆の政治意識を高めた近年の活動」により、第3回菊池寛賞を受賞。 1960年10月17日、NHK会長に就任。 1962年、日本で初めての広域通信制高等学校である「学校法人日本放送協会学園」創設に尽力し初代理事長に就任する。[17]。 1963年、原安三郎日本化薬社長・茅誠司東京大学総長・上田常隆毎日新聞社長・上代たの日本女子大学学長・栗田確也栗田書店社長・評論家の坂西志保・渋沢敬三元日銀総裁とともに「小さな親切」運動を提唱する。 1964年7月9日午前7時、NHK会長在職中に心筋梗塞で急死した[18]。死去後、妻のさだがその遺志を継ぎ、生徒・学生の育英事業を行うことが発議され、1964年10月1日に「財団法人阿部育英基金」が誕生した[19]。 1972年、富岡市の名誉市民に選出された[20]。 甥(弟の子)に、読売新聞社記者の阿部幸男、西洋史学者の阿部玄治[21]。 受賞[2]編著書
脚注
関連項目外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia