関金温泉(せきがねおんせん)は、鳥取県倉吉市(旧国伯耆国)にある温泉。
泉質
放射能泉で、三朝温泉に次いで日本国内第2位のラドン放射能を有する[4][5]。無色無臭の美湯。関金温泉と三朝温泉の湯が放射能を帯びている理由は長年不明だったが、1955年(昭和30年)に近くで水成ウラン鉱が発見され、これに由来することが判明した[4]。
源泉温度は40 - 62℃である[1]。
温泉街
大山の東麓、国道313号から奥に入った場所に温泉街が広がる。旅館は5軒存在する。共同浴場は1軒、「関の湯」が存在する。また日帰り入浴施設として「せきがね湯命館」も存在する。
旧来の温泉街区と1963年(昭和38年)に開削された町営の源泉を引く新温泉区があるが、1969年(昭和45年)3月24日に国民保養温泉地に指定されると、町では条例を定めて源泉を集中管理するようになった[6]。
歴史
開湯伝説は諸説ある。開湯年代を養老年間(西暦717-723年)とするもの[4]、延暦年間(782年-806年)とするもの(『日本鉱泉誌』)[2]、貞観12年(870年)とするもの[6]、元弘年間(1331-1333年)とするものがある[6]。
鶴が入浴しているところを行基が発見し、弘法大師が荒れ果てていた温泉地を整備したと伝えられる。発見者を弘法大師とする説もある。元弘年間の開湯説では、関金城主の山名小太郎が開湯したことになっている[6][注 1]。また、昭和初期の文献では、行基(668-749年)が発見し、一度廃れたが弘法大師(774-835年)が再興し、山名小太郎(14??-1489?年)が浴槽を設置した、となっている[7]。
関金温泉には、湯の美しさから「銀の湯」「しろがねの湯」との古名があり[4]、伯耆民談記にも「銀湯」として登場する。
江戸時代には、鳥取県中部と山陽地方を結ぶ備中街道(美作街道)上にあり、関金宿が置かれていた[8]。放射線が測定されるより以前の時代には「淡黄色の無臭の炭酸泉」とされている[9]。
鳥取県が入湯税を基に算出した温泉利用者数をみると、ピークは2003年(平成15年)頃で約34,000人が利用している[10]。その後低迷し2012年には約13,000人となったが、これを底に再び増加傾向となり2017年には約23,000人となっている[3]。1997年(平成9年)以前は利用者の算出方法が異なり、各自治体の申告数に基づく推計値だが、これに遵うとバブル景気の頃には年間40万人前後の利用客があった計算になる[10]。
行事・祭事
この地域では、10月7日の御幸行列や、『大山寺縁起絵巻』にも描かれている田植歌(田植田楽)の習俗を持つ[8][5]。
付近の名所
アクセス
- かつては倉吉駅から倉吉線が分岐し、途中の関金駅が最寄り駅になっていたが、1985年(昭和60年)4月1日に倉吉線が廃止され、駅も消滅した。
- 運行曜日・便数が限られるが、姫新線中国勝山駅より真庭市コミュニティバス「まにわくん」の 37 蒜山・久世ルートに乗車し、宮田停留所で 32 中曽・関金ルートに乗り継ぐことでも来訪可能。
脚注
参考文献
- 『全國温泉案内』,溫泉研究會,日本書院,1924
- 『溫泉案内』,鉄道省,博文館,1940
- 『図説日本文化地理大系4 中国1』,浅香幸雄・編,小学館,1962
- 『日本の文化地理 第13巻 兵庫・岡山・鳥取』講談社,1970
- 『日本地名大辞典 31 鳥取県(角川日本地名大辞典)』,角川書店,1982,ISBN 978-4040013107
- 『鳥取県の地名(日本歴史地名大系)』,平凡社,1992
- 『鳥取県の歴史散歩』,鳥取県歴史散歩研究会・編,山川出版社,1994,2003
- 『全国温泉大事典』野口冬人・著,旅行読売出版社,1997,p560-563
- 鳥取県文化観光局観光政策課 平成22年観光客入込動態調査結果
注釈
- ^ 山名小太郎は伯耆守護の山名氏の一門で、後継者争いに巻き込まれて関金で討ち死にしたと伝えられている。ただしその時期は15世紀末頃であり、元弘年間(14世紀半ば)とは大きく異なる。)
出典
関連項目
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