温泉番付(おんせんばんづけ)とは、温泉地を大相撲の番付に見立てて格付けしたものである。
概要
温泉番付が初めて作られたのは、江戸時代の寛政年間といわれている。当時歌舞伎役者の人気を相撲の番付風に格付けした、見立て番付が流行した。同じようなものが数々のジャンルに対して作成され、温泉番付もその中の1つとして作成された。その番付は効能の高さを元にランク付けされている。そのため、番付によっては温泉名の上に効能が記述されているものもある。番付の東西は、大相撲の番付の考え方と異なり、単に東日本の温泉は東に、西日本の温泉は西に番付されている。ただし、幕内下位の西日本の欄には東日本の温泉が一部入っている。
温泉番付は江戸、大坂など、町人文化が発達したところで町人によって作成され、その後各地の温泉地でも作成された。この時代の番付の特徴としては、
- 作成された場所により、温泉地の番付に変化がある
- 誤字脱字、該当温泉地が不明のものがある。
1の理由としては、近くの温泉や自分の温泉地をひいきにしたりすることが多かったためである。2については、当時は街道は発達していたが町人が自由に旅行することは難しく、他の旅行者の評判や既存の温泉番付を参考にして番付に反映させていた。その結果人伝えに情報が伝えられるうちに誤字脱字や、該当不明の温泉地が発生しそれがそのまま掲載された。
作成された場所により温泉番付の中身は変化があるが、どの番付でも大関(当時最高位)は草津温泉と有馬温泉、勧進元は湯の峰温泉(番付内では本宮の湯として登場)である。
江戸時代に流行った温泉番付は明治時代以降も製作されたが、徐々に番付を行う風習は廃れていった。
現在では温泉の格付けはベスト10、ベスト100形式が主流であるが、松田忠徳など温泉評論家により番付が作成されることがある。また、野口冬人による露天風呂番付や、共同浴場番付など特定の分野に特化した番付も作られている。
諸国温泉功能鑑
温泉番付の一例としての「諸国温泉功能鑑」は元版が江戸時代後期1812年(文化9年)から1817年(文化14年)の間に出版されたとされる[1]。なお当時の相撲には横綱の格付けはなく大関が最高位であった[2][3]。
ギャラリー
脚注
注釈
- ^ 「木の崎の湯」とも。
- ^ 後年の温泉番付には伊香保となっている。
- ^ 小河内ダムにより水没。現在は、ダム底の源泉からポンプで汲み揚げた湯を近隣旅館に配湯している(鶴の湯温泉)。
- ^ 因州の勝見の湯という説が有力。
- ^ 芦峅、即ち江戸時代に栄え1858年に鳶山崩れにより壊滅した立山温泉か。
出典
- ^ ⽯川理夫「江⼾時代の温泉番付にみる温泉地の受容と変遷」『温泉地域研究』第27号、⽇本温泉地域学会、2016年9月、11-22頁。
- ^ “温泉トリビアその17”. ツムラ温泉科学プロジェクト. 2009年4月2日閲覧。
- ^ “1851年嘉永4年2月、「諸国温泉功能鑑」の発行年月、別府歴史年表”. 別府歴史資料デジタルアーカイブ. 2009年4月2日閲覧。
- ^ “温泉番付について”. 観光経済新聞. 2009年4月2日閲覧。
関連項目
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