関川神社
関川神社(せきがわじんじゃ)は、愛知県豊川市赤坂町関川に建つ神社である。祭神は市杵島媛命。 概要長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基[1]の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた[2]。氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている[3]。 祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に改められ、余興は行われていない[3]。 同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として境内が使用されてきた[4]。 確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える[3][5]。他には、明治20年(1887年)のものがある[6]。 境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある[7]。 句碑境内には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑がある。宝暦元年(1751年)冬に建てられた旧碑と、明治26年(1893年)12月に建てられた新碑があるが、旧碑は上部が折れてしまい、一部が判読不能になっている。句の部分も「油よ梨」「て而赤坂や」の部分しか残っていない[8][9]。 新碑は、芭蕉200年忌(明治25年(1892年))を機に花井又右衛門(花井汲古)が働き掛けて資金を集め、旧碑の前に建立したものである。三河産の花崗岩を用い、多田了証[10]が寄付した自然石の上に乗せられた。俳壇の家元である東京月之本素水八十一が揮毫し、萩本政次郎が彫った[11]。 文化財
社殿の脇に立つ楠。幹周8.1m[12]。根元がえぐれているが、これは慶長14年(1609年)に発生した火災により焼失した部分であると伝えられる[13][14]。 昭和56年(1981年)3月1日、音羽町(当時)の文化財に指定された[15]。 交通註
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