長崎・佐賀連続保険金殺人事件
長崎・佐賀連続保険金殺人事件[8](ながさき・さがれんぞくほけんきんさつじんじけん)は、1992年(平成4年)と1998年(平成10年)に日本の佐賀県と長崎県で発生し、1999年(平成11年)に発覚した連続保険金殺人事件である。 『長崎新聞』や『読売新聞』西部版は佐賀・長崎連続保険金殺人事件と呼称している[1][9][10][11][12][13][14]。 概要夫や子供を持つ女Yが、愛人の男Hと共謀し、夫と次男に生命保険金を掛けて殺害したことで注目された[11]。Yは看護師資格を持っていたため、睡眠薬の調合ができた。
Yの夫が佐賀県のホステスと不倫関係に陥った。ホステスの夫であったマスターは逆恨みし、Yに迫り、全裸写真を撮影する。さらにマスターは写真でYを脅迫し、愛人関係を持つに至った。その後Yはマスターが経営するスナックで働き始め、そこで客であったHと出会い、これと愛人関係になる。Hはマスターとの関係を清算する代わりに、Yに夫に保険金を掛けて保険金殺人をするよう迫った。1992年(平成4年)9月10日[2]、Yは夫(当時36歳)に睡眠導入剤を混入したカレーライスを食べさせた上、佐賀県藤津郡太良町の大浦海岸で転落させて水死させ、約9,000万円の保険金を騙し取った。
1998年(平成10年)10月26日、Yは当時高校生だったYの次男(当時16歳)[注 1]を夜釣りに誘い出し、睡眠薬を飲ませる。そして翌27日未明[3]、YはHと共に寝ている次男を長崎県北高来郡小長井町(現:諫早市)の小長井港で[16]海に突き落とした。睡眠薬の効き目が切れたのか次男は泳いで岸までたどり着くが、Yは岸辺にしがみつく次男の頭を押さえつけて水死させた。次男には約3,500万円の保険金がかけられていたが、保険金の支払いは保留されたため、2人は保険金を得られなかった[3]。 また、H・Y両名はこれに先立つ同年9月29日20時ごろ、佐賀県鹿島市内の知人(当時75歳)宅に押し入り、現金約137,000円やネックレスなど6本(時価合計約120万円相当)、普通預金通帳1冊を強奪した[3]。 刑事裁判Yの次男の遺体を司法解剖したところ、事故死ではないことが判明し、また彼には多額の保険金がかけられていたことも判明したたため、長崎県警察は捜査一課や諫早警察署を中心とした専従捜査員による捜査活動を展開した[16]。その結果、YやHによる保険金殺人の嫌疑が強まったため、長崎県警は窃盗事件などで逮捕されていたYを追及したところ、Yは犯行を自供した[16]。同県警は1999年8月30日[17]、男H(当時52歳)[注 2]と女Y[注 3]を、殺人容疑で逮捕。その後、9月18日には長崎・佐賀両県警が2人を佐賀事件の殺人容疑で再逮捕し、諫早署に150人態勢の合同捜査本部(本部長・小賦義一長崎県警刑事部長)を設置した[5]。その後の捜査で、Yの長男(当時18歳)や長女(当時10歳)にもそれぞれ4,000万円と2,500万円の保険金を掛けており、長女には何回か睡眠薬を飲ませていたことが発覚した。 その後、両被告人は刑事裁判で、2件の殺人罪・詐欺未遂罪および詐欺罪・窃盗罪・住居侵入罪・強盗罪に問われた[18]。2000年(平成12年)2月15日に長崎地方裁判所(山本恵三裁判長)で両被告人の初公判が開かれた[19]。これ以降、公判は32回にわたって開かれ、両被告人は起訴事実を認めた一方、犯行の主従関係などを巡って争った[1]。 2002年(平成14年)7月23日に論告求刑公判が開かれ、検察官はH・Yの両被告人に死刑を求刑した[6]。長崎地検による死刑求刑は当時、3人を殺害したとして死刑が確定した死刑囚(1998年6月に死刑執行)以来、約20年ぶりだった[6]。同年10月9日に被告人Hの弁護人が、翌10日に被告人Yの弁護人がそれぞれ最終弁論で死刑回避を求め、第一審の公判は結審した[20][21]。 2003年(平成15年)1月31日、長崎地裁(山本恵三裁判長)は被告人2人に死刑判決を言い渡した[1][9]。長崎地裁における死刑判決は、1978年(昭和53年)9月に言い渡されて以来[注 4]、25年ぶりだった[9]。被告人Yの弁護団は即日控訴し[9]、Hも同年2月14日付で控訴した[23]。 控訴審にあたり、Yの長男と長女は母の助命嘆願書を提出。2004年(平成16年)5月21日の控訴審判決公判で、福岡高裁(虎井寧夫裁判長)は第一審判決のうち、被告人Yに関する部分を破棄自判し、Yを無期懲役とした一方、被告人Hに関しては第一審判決を支持し、控訴を棄却する判決を言い渡した[10]。福岡高裁は犯行の主従関係について、「佐賀事件は両被告人とも同程度に積極的に加担したが、長崎事件はHが主導した」と認定[10]。Yについては更生の可能性や、極刑を望んでいない残された子供や、夫の実兄ら被害者の感情を考慮し、極刑を回避した[7]。 改めて死刑とする判決を受けた被告人Hは同判決を不服として、同年6月2日付で最高裁へ上告した[24]。一方、福岡高等検察庁は被告人Yについて、同月4日付で上告断念を発表した[7]。Yの弁護人を務めていた弁護士の小島肇も、判決を妥当として上告しない意思を表明していたが[25]、Y本人は同日(4日)付で上告した[26]。しかし、2005年(平成17年)10月25日付で、最高裁第一小法廷(島田仁郎裁判長)がYの上告を棄却する決定を出したため、Yは無期懲役が確定した[27]。なお、Yは獄中結婚し[28]、「M」姓に改姓している[4]。 被告人Hは2008年(平成20年)1月31日に最高裁第一小法廷(涌井紀夫裁判長)で上告棄却の判決を受けたため、死刑が確定した[4]。 2020年(令和2年)9月27日時点で[29]、男H(現在77歳)[注 2]は死刑囚(死刑確定者)として、福岡拘置所に収監されている[30]。 その他
脚注注釈出典
参考文献
関連項目 |