鍋島直泰
鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年〈明治40年〉10月3日[1] - 1981年〈昭和56年〉4月1日[1][2])は、日本の宮内官僚、政治家、華族(侯爵)。旧佐賀藩鍋島家第13代当主[1]。貴族院議員。 経歴12代当主・直映の嫡男で、母は黒田長知の次女・禎子[1]。学習院を経て、1931年(昭和6年)東京帝国大学文学部を卒業[2]。1933年(昭和8年)宮内省に入省し、式部官兼主猟官に就任[2]。 父の死去に伴い、1943年(昭和18年)12月28日に家督を相続し侯爵を襲爵[1]。同日、貴族院侯爵議員に就任し[3]、火曜会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院の廃止まで在任した[2]。 式部官を務めていたこともあり、1949年(昭和24年)、昭和天皇の戦後巡幸が佐賀市内で行われた際には、御泊所となった楊柳亭で拝謁する機会を得ている。この際、鍋島家伝来の鍋島焼3点を披露している[4]。 人物名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。長野県軽井沢町「軽井沢ゴルフ倶楽部」所属[5]。また、蝶の研究・収集などでも有名である。 自動車愛好家としても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを2分割にするなどの改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2007年にトヨタ博物館に寄贈され、以降、同館にて展示されている[6][7]。 栄典
親族脚注
参考文献
外部リンク
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