野良打ち野良打ち・のら打ち(のらうち)とは、主に福井県嶺北地方での神社の祭りにおける太鼓打ちの形式を指した呼び名。 概要神社の祭り等の風景の中で その社の太鼓を用い、夕方から夜にかけ屋外に神社氏子等の太鼓好きが集まって、自由に太鼓を打つことから発祥した太鼓スタイルである。具体的には一張の「長胴太鼓」を厚手のむしろを敷いた地面に平置きし、2名1組で太鼓の片面だけを使って打つスタイルで、一方の打ち手が「地打ち」を、他方の打ち手が「地打ち」側に合わせて自由に太鼓を打ち込んでいく。そして一定時間(数分)経過すると、他に打ちたい者が「地打ち」側に入ってきて、それまで「地打ち」をしていた者が「打ち込み」側にまわる・・・この繰り返しが切れ目なく行なわれる(繰り返しが途切れる場合も間々ある)。また、その場に「篠笛」や「チャンチキ」、「チャッパ」が加わることもあり、より一層、場の雰囲気を賑やかにする。その昔は地区によっては、野良打ち参加者全員に『太鼓打ち名人』と書かれた「すげ傘」を渡していた時期があり、その「すげ傘」をいくつも集めるのが太鼓自慢の証しだと言われていた。現代では、一般的に時と場所と打ち手を問わず、自由奔放にストリートパフォーマンス的に太鼓演奏することに発展し、単に神社の祭り太鼓に限らないものとされている。なお、「野良打ち」と「曲太鼓(曲打ち)」とは同じ「個人打ち」の類ではあるが、「野良打ち」には「舞台演出的な要素」がほぼ含まれていないため、「曲太鼓(曲打ち)」とは一線を画し別物として扱われている。 福井の野良打ちの主な特徴
用語の発生時期昔から福井県嶺北地方において「祭り太鼓」と言えば、現在で言うところの「野良打ち形式」をさしていたが、名詞用語としては、おおよそ昭和40年代頃から一般的に定着したと推察される。 書き言葉として意味現在、書き言葉として『野良打ち』と『のら打ち』の両方が用いられているが、『野良』の場合には、「野原・野」の意味(良は当て字)を持ち、一方『のら』の場合には、「なまけること・遊興にふけること・酒や女におぼれること」の意味を持つ。しかしながら、現状、どちらが正解だとは判断し難い。 野良打ちの参加者年齢・性別・太鼓の上手下手を問わず、太鼓を打ちたい者なら誰でも参加できる。 暗黙の決まり事
野良打ち今昔元々は祭りを主催する その神社の氏子等によって、神々や先祖に奉納する為に打ち鳴らされたもの。祭りには盆踊りや民謡の輪が広がる傍らで、その踊りに溶け込むように太鼓が打ち鳴らされた。現代では「野良打ち」参加者の傾向が徐々に変わってきている。1980年代後半頃までは、太鼓の上手下手に関係なく、普段は和太鼓に疎遠な素人でも参加しやすい場の雰囲気にあったが、その後の全国的な「和太鼓ブーム」を機に次第と「セミプロ級」の打ち手が中心となって集まるようになり、実践練習の場、腕試しの場と化している。徐々に昔ながらの味のある太鼓、風情、情緒ある雰囲気が失われている。 野良打ちの特に盛んな地域古くは福井県嶺北地方全域の祭り太鼓として親しまれて来たが、2009年現在では約20箇所で「野良打ち」が開催されている。そのうち9箇所は福井市森田地区とその周辺にある。これは、江戸時代に宿場町の要所として特に栄えていた森田地区周辺の丁度真ん中を旧北陸街道がクネルように長く通っており、街道沿いの神社が他の地域に比較して多かった事や、大雨により氾濫を幾度となく繰り返していた九頭竜川と、九頭竜川を渡る手段として唯一繋がれていた「舟橋(複数の小舟を鎖で繋いで造った橋)」の危機を太鼓の音を利用して次々に周辺へと伝達していくため周辺各所に「知らせ太鼓」の場が設けられていたことに由来している。これは、今から60年以上の昔までは森田地区やその周辺に「太鼓店」が残っていた事によっても理由付けられている。なお、2009年10月現在、福井県内の太鼓店は「加藤太鼓店」(当代五代目・福井市月見・石川県浅野太鼓店の縁戚)のみ存在してる状況である。 他都道府県の「野良打ち」類似形
出典
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