野寺正一
野寺 正一(のでら しょういち、1886年10月5日 - 1939年6月30日[1])は、日本の俳優である[2][3][4][5][6][7][8]。本名同じ[2][4][5][6][7][8]。新派を経て、松竹蒲田撮影所で活躍した戦前の貴重な名脇役である[5][6][7][8]。 経歴・人物1886年(明治19年)10月5日、東京府東京市深川区元町(現在の東京都江東区)に生まれる[2][3][4][6][7][8]。1924年(大正13年)に発行された『映画新研究十講と俳優名鑑』(朝日新聞社)には、生年は「明治十九年五月十一日」(1886年5月11日)、生地は東京市日本橋区(現在の東京都中央区)である旨が記されている[5]。幼少期から芝居を好んでいた[6][7]。 1901年(明治34年)5月、旧制中学校を中退して新派俳優本多小一郎の門下となり、初舞台を踏む[2][4]。師匠である本多の来歴については明らかでないが、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社)が発行された1934年(昭和9年)の時点では、すでに故人であるという旨が記されている[8]。また、1937年(昭和11年)に発行された『俳優大鑑』(歌舞伎書房)によれば、生年月日・享年(数え年)は明らかにされていないものの、「明治卅八年十一月五日死」(1905年11月5日死去)であるという旨が記されている[9]。1907年(明治40年)、喬生団をはじめ、玉操団、正操団などの新派劇団を自ら組織して、主に関東地方・東北地方を中心に巡業するが、同年には解散したため、その後は東京府東京市の各座に出演した[2][3][4][6][7][8]。 1915年(大正4年)7月、M・カシー商会によって製作されたサイレント映画『山つつじ』に出演し、映画デビューを果たす[4]。1917年(大正6年)4月には、松竹合名会社専属俳優となり、東京市にあった辰巳劇場や本郷座などの舞台に出演していたが、1921年(大正10年)3月1日、小林商会を経て松竹蒲田撮影所に入社[2][3][4][6][7][8]。以後、同所の温厚な老け役として重宝され、同年6月24日に公開された賀古残夢監督映画『酒中日記』や、同年11月1日に公開された同じく賀古残夢監督映画『琵琶歌』などの現代劇・時代劇に多数出演した[2][3][4]。『現代俳優名鑑』など、一部の資料によれば、東京市浅草区芝崎町32番地(現在の台東区西浅草)から後に東京市蒲田区蓮沼町(現在の東京都大田区蓮沼町及び蓮沼1〜3丁目辺り)に住み、身長は5尺2寸5分(約159.1センチメートル)、体重は14 貫(約52.5キログラム)、妻ありと記されている[4][6][7][8]。 1938年(昭和13年)6月9日、松竹大船撮影所が製作した島津保次郎監督映画『愛より愛へ』が、確認出来る最後の出演作品である。以後の消息は不明とされていた[2][3]が、『中央新聞』1939年(昭和14年)7月1日付の新聞にて、去る6月30日に盲腸炎のため、数え年54歳(満52歳)で死去したと報じられている[1]。 出演映画
脚注
外部リンク
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