趙琪
趙 琪(ちょう き、1882年 - 没年不詳)は中華民国の政治家。中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人。字は瑞泉。「趙祺」と表記する例もあるが[1]、誤りとみられる。 事績初期の活動学者の家庭に生まれる。私立青島徳華大学でドイツ語を習得する。卒業後の1901年(光緒27年)、山東巡警庁で翻訳官となった。1913年(民国2年)、ドイツに遊学する[2]。 帰国後、津浦鉄路工程局技師、淞滬警察庁督察長、高等外交顧問を歴任する。1917年(民国6年)、竜口商埠興築公司総理となる。1921年(民国10年)2月、竜口商埠局局長(後に総弁)に昇格した。翌年4月、山東省参議となる。1925年(民国14年)、段祺瑞の推挙により膠澳商埠督弁に転じ、まもなく総弁に昇格した。1929年(民国18年)、辞職する[2][3]。 親日政府での活動1938年(民国27年)1月10日、日本軍が青島を占領すると、趙琪はこれに協力姿勢を示す。17日に青島治安維持会会長、19日に青島復興委員会会長にそれぞれ就任した。同年12月20日には青島興亜倶楽部名誉会長となっている[4]。 1939年(民国28年)1月9日、青島治安維持会解散と同時に、中華民国臨時政府において趙琪は青島特別市公署市長に任命された[5][6]。同年3月5日、臨時政府委員(議政委員会委員。特任官)を兼任している[7]。 1940年(民国29年)3月30日、南京国民政府(汪兆銘政権)に臨時政府が合流し、華北政務委員会に改組される。趙琪は同委員会委員に特派され[8][9]、青島特別市市長にも重任した[10]。同年8月6日、新民会青島市総会委員長にも選出されている。1943年(民国32年)3月18日、青島特別市市長を辞任(後任は社会局長の姚作賓)、華北政務委員会委員の専任となった[4]。 汪兆銘政権崩壊以後における趙琪の消息は不明である[11]。1948年(民国37年)5月8日、国民政府の山東省高等検察庁により、財産の差し押さえを受けた[12]。 人物像『最新支那要人伝』によれば、青島社交界ではその明朗な性格と社交手腕により、「支那のノントウ」の愛称があったという。ドイツ語は得意であったが、日本語は「お愛嬌」程度だったとされる。また、父祖の学問を継いで『萊州府志』8巻を整理していた[2]。 注
参考文献
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