赤羽橋
赤羽橋(あかばねばし)は、東京都港区の古川に架かる橋。また、北西側にある都営地下鉄大江戸線赤羽橋駅周辺を指す地名。 概要北東が芝公園四丁目、北西が東麻布一丁目、南西が三田一丁目、南東が芝一丁目。 国道1号桜田通りの一部で、北側の赤羽橋交差点で東京都道319号環状三号線、東京都道301号白山祝田田町線と交差する。上部は首都高速道路都心環状線に覆われ、芝公園出入口で周辺道路と接続する。 歴史江戸時代の橋創架年代は不明だが、「正保江戸図」には橋が確認できる[1]。延宝3年(1675年)古川の浚渫工事に伴い木橋が架けられ、寛文7年(1667年)頃古川の拡福工事により土橋となった[2]。 修復は近隣大名の月番で行われ、文政頃には久留米藩有馬頼徳、高知藩山内豊資、伊予松山藩松平定通、浜松藩水野忠邦、川越藩松平斉典、郡山藩柳沢保泰、新庄藩戸沢正胤、三春藩秋田孝季、丸亀藩京極高朗、島原藩松平忠侯、臼杵藩稲葉幾通、清末藩毛利元世、佐土原藩島津忠徹、芝村藩織田長恭の14家が担当していた[2]。この時の橋は長さ11間、幅4間2尺、高さ3尺5寸[2]。 橋周辺古川の内、赤羽橋周辺は特に赤羽川、中ノ橋との間の河岸地は赤羽河岸と呼ばれた。北西側の河岸地では魚商人が毎朝「ちょっと」の間立売を行ったため、ちょろ河岸と呼ばれた[3]。 橋の北東側には増上寺裏門赤羽門があり、寺への延焼を防ぐ火除地として赤羽広小路が設けられていた。 橋の南側は江戸時代初期には農村だったが、明暦年間久留米藩有馬家上屋敷、寛文7年(1667年)芝松本町一丁目、二丁目、芝新網町代地、芝中門前三丁目代地が成立し、市街化した。 文政元年(1818年)、久留米藩が国元から藩邸に水天宮を勧請して賑わったが、明治4年(1871年)、青山に移転した[4]。 文久3年(1863年)4月13日、浪士組を率いていた清河八郎が橋近辺にて暗殺されている[5]。 近代
1872年(明治5年)、久留米藩邸跡は芝赤羽町となり、1967年(昭和42年)まで存在した[4]。 都電時代は橋上を三田線が通り、南側の赤羽橋停留場で古川線と接続していた。 句
脚注参考文献
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