賀露村
賀露村(かろそん)は、鳥取県高草郡・気高郡にあった村・自治体である。 概要現在の鳥取市賀露町・賀露町北・賀露町西・賀露町南におおむね相当する。千代川河口の左岸に位置し、西側には湖山砂丘(広義の鳥取砂丘の一部)が広がっていた。 賀露は加路・賀呂・軽とも書き、「カル」とも読んだ。語源については、因幡にゆかりの深い武内宿禰の子孫の軽部臣(かるべのおかみ)がいたという説、アイヌ語の「Ka(上の)」「Ru(路)」から転化したという説、海岸地帯であることから「Karl」(カール)に由来するという説などがある。平安時代の文書に布施郷加露荘と書いてあり、「カル」は「カロ」の訛ったものとされる[1][3]。 鳥取の城下町が発展すると賀露はその外港として繁栄し、鳥取藩は軍事経済上重要な場所のため船手番所を置き警備にあてた。明治に入り商業が自由になると港湾改修の必要性が一層強まり、明治10年頃にオランダ人技師のヨハニス・デ・レーケが視察した。1889年(明治22年)に西防波堤が築造され、それ以来整備改修が行われた[1][3]。 享保13年には湖山村から当村までの間に砂除けの土手を築き、砂防林として松を1万8千本植えた[3]。 沿革
行政村長
教育
交通港湾鉄道
道路
出身者脚注
関連項目 |