賀年城
賀年城(かねじょう)は、長門国阿武郡嘉年(山口県山口市阿東嘉年下)の勝山にあった日本の城(山城)。別名勝山城[1]。 概要阿東嘉年にある勝山(標高516メートル)に築かれた連郭式の山城。築城年代は鎌倉時代末期[1]とされるが詳細は不明。少なくても南北朝時代にはあったと思われる。正中元年(1324年)に吉見氏が築城した三本松城(津和野城)の西方約8.5キロメートルのところに位置し、同城の支城としての役割を果たした。 山頂の本丸と東側の二の丸の二つの曲輪からなる単純な構造だが、山の急斜面を生かした要害であり、幾つかの堀切が残っている。また、勝山の北北東にある物見ヶ岳には狼煙台が設置され、賀年城と三本松城との連絡に用いられていた[2]。 歴史・沿革南北朝時代長門益田家文書[3]に収められている「虫追政國軍忠状」によれば、建武4年(1337年)5月に南朝の軍勢が攻め寄せたと記録されている[4]。賀年城には、石見国長野庄[5]の惣政所であった虫追(むそう)政國が北朝方の軍勢を率いて籠もり、負傷しながらも大手門から打って出て南朝軍の旗2本を奪ったと伝えられる。 室町・戦国時代文明3年(1471年)には、大内氏第14代当主の大内政弘に対して謀反を起こした大内教幸(道頓)を討伐するため、周防守護代の陶弘護が賀年に攻め込み[6]、賀年城を攻略している(大内道頓の乱)。 大寧寺の変で大内氏第18代大内義隆が滅ぼされると、義隆の姉を娶っていた吉見正頼は謀反人である陶晴賢と対立。天文23年(1554年) に陶晴賢討伐を掲げて正頼が挙兵すると、大内義長を総大将に擁する晴賢も出陣する(三本松城の戦い)。賀年城には、波多野滋信・波多野秀信親子と援軍の吉見範弘・下瀬頼定が300余の兵を率いて籠もり、勝山から少し離れた場所には吉賀頼貞親子が100人の手勢を率いて陣取った。しかし、3月2日に攻め寄せた陶軍は4,500人以上の兵で賀年城を包囲した。籠城軍は、要害堅固な地形を生かして善戦したと伝わるが、家臣の田中次郎兵衛が陶軍に内応したため翌日には落城。波多野親子、吉見範弘らが討ち死にし、下瀬頼定や吉賀頼貞は敗走した。 天文24年(1555年)の厳島の戦いで勝利した毛利元就が周防・長門へ侵攻すると(防長経略)、吉見正頼も呼応して出陣。賀年城を含め、大内方に奪われていた城を奪回している[7]。 周辺
脚注関連項目外部リンク
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