谷村自庸谷村 自庸(たにむら よりつね、1845年〈弘化2年〉 - 1905年〈明治38年〉8月1日)は、江戸時代後期の土佐藩上士。通称は樵一郎。維新後は谷村樵夫と称した。馬廻役・谷村家の第7代当主。無双直伝英信流居合の達人。剣術家。神職。 来歴生い立ち弘化2年(1845年)、土佐藩士(馬廻役・250石)谷村自輝(酒之丞)の嫡男として高知城下に生まれる。幼名は「小金吾」。字は「頼」。通称は「樵一郎」で、維新後は「谷村樵夫」と称した。無双直伝英信流第15代宗家・谷村自雄(亀之丞)は、祖父・谷村自高(右衛門八)の弟にあたる[1]。母は日根野弘亨(修平/鏡水)の次女[1][2]。 嘉永5年閏2月1日(1852年3月21日)、土佐藩主山内豊信の時代、嫡孫御目見え仰せ付けられる[1]。 文久3年3月4日(1863年4月21日)、土佐藩主山内豊範の時代、御雇を以て召し出され、三人扶持20石を下し置かれ、来る3月10日(太陽暦4月27日)、兵之助様御供を以て京都へ差し立てらる[1]。 同年10月14日(太陽暦11月24日)、御供を以て下着(帰郷[1])。 この頃、さらに楠目成榮(繁次)のもとで居合を学び、元冶元年(1864年)、免許皆伝を受けた。 明治元年6月17日(1868年8月5日)、英式砲術導役を仰せ付けられ[1]、同年11月29日(1869年1月11日)、海軍局第三等士官舶砲科を仰せ付けれる[1]。 明治2年3月5日(1869年4月16日)、舶砲科導役を仰せ付けらる[1]。 同年10月16日(太陽暦11月19日)、右勤事を差し免がれる[1]。 明治3年4月9日(1870年5月9日)、東京より帰郷[1]。 廃藩置県以降初め、土佐郡潮江村に住し、のち高知市薊野の東照宮の神職として奉職。陽貴山の麓(現・掛川神社附近)に居を移す。 明治31年(1898年)、五藤正亮の歿後、跡を引継ぎ高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)の居合術教師を拝命。 土佐藩士姻族関連系図
補註参考文献
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