諏訪神社 (新発田市)
概要歴代領主の崇敬を受け、新発田の総鎮守とされる。毎年8月末に行われる例祭の新発田台輪でも知られる。 祭神
歴史創建は大化4年(648年)と伝えられる。大和朝廷により渟足柵や磐舟柵が置かれた際、柵戸として信濃国から移住した人々が、現在の諏訪大社より分霊を勧請したのが起源とされる。当時は現在の北蒲原郡聖籠町の諏訪山に鎮座したという。 その後、新発田一帯の領主となった佐々木氏および新発田氏の崇敬を受けるようになる。この間、神社は新発田氏により諏訪山から新発田城のそばへ遷座したとも伝えられる。 江戸時代に入ると、新発田藩初代藩主溝口秀勝により新発田城内へ遷されたのち、城外での幾度かの遷座を経て、元禄元年(1688年)、四代藩主溝口重雄の時代に現在地へ遷座した。歴代藩主による篤い崇敬は町人にまで広がり、夏の祭礼は城下の最大行事として大いに賑わうようになった。 七代藩主溝口直温の時代、宝暦6年(1756年)に建立された社殿が2001年まで存在していたが、同年11月5日未明に焼失した。しかし、市民の寄付などにより2004年に社殿が再建され、現在に至っている。 境内
摂末社
祭事詳細は「諏訪神社 年間行事」(外部リンク)を参照。 8月の例祭は、江戸時代より新発田の街を挙げて盛大に行われてきた。享保11年(1726年)、六代藩主溝口直治が当神社の祭礼にあたり各町内へ「飾り人形の屋台を出すように」とのおふれを出したことから新発田台輪が生まれ、町人も参加する盛大な祭りとなった。 現在は例祭の期間中に城下町新発田ふるさとまつりが開催されている。祭りの象徴である新発田台輪は、8月27日早朝に新発田市の各町内から当神社の境内に奉納され (奉納台輪) 、29日の夕方に各町内へ帰っていく (帰り台輪) 。例祭中の移御式と還御式は古来からの形式に則って行われており、これは全国でも数少ない例となっている。 現地情報新発田市街に立地する。道路を挟んで南側には蒸気機関車が保存される東公園がある。また、西側には清水園や足軽長屋のほか、宝光寺や福勝寺などが並ぶ寺町通りがある。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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