西光寺 (長野市)
西光寺(さいこうじ)は、長野県長野市にある浄土宗の仏教寺院。山号は苅萱山。院号は寂照院。本尊は苅萱親子地蔵尊[1]。絵解きの寺として知られる。 交差点の名前も「かるかや山」、バス停も「かるかや山前」となっており、かるかや山と通称されることが非常に多い。 縁起と「苅萱伝説」謡曲、説経節などで広まった「苅萱伝説」ゆかりの寺である。伝承によれば、苅萱道心(寂照坊等阿とも)は元は九州6か国の国司で、俗名を加藤左衛門尉重氏といった。世の無常を感じた重氏は出家して高野山に赴き、仏道修行に励む。苅萱の出家後に生まれた子である石童丸と母は父を探して高野山に行き、女人禁制で母は麓に残る。 石童丸は父と思しき僧を見つけ、「父ではないか?」と尋ねるが、出家の身である苅萱は涙を堪えて「そなたの父は死んだ」と告げる。石童丸が下山すると母が亡くなっていた。石童丸はその後、高野山に上り、刈萱を実の父親と確信しつつも、34年間弟子として共に過ごした。 ある日、刈萱は善光寺阿弥陀如来のお告げを得て信濃国に移って、善光寺近くに草庵を営んだ。これが西光寺のはじまりである。それから14年、83歳で往生するまで、刈萱は日々善光寺に参籠して過ごしたという。 一人残された石童丸は、信濃の方角に紫雲のたなびくのを見て信濃の西光寺へ向かい、刈萱塚を建立した。そして父の死の2年後の同じ8月24日、そこで没した。西光寺に伝わる2体の地蔵菩薩像は「苅萱親子地蔵」と称され、苅萱道心と石童丸がそれぞれに刻んだものとされている。西光寺にはこの縁起を描いた『苅萱道心石童丸御親子御絵伝』が所蔵されており、聴衆に見せながら語り聞かせる絵解きを行っている[2]。 歴史正治元年(1199年)、善光寺如来の導きにより、高野山を下った苅萱道心がこの地に草庵を結び、創建する。[3] 越後に流されていた親鸞聖人は、建暦元年(1211年)、放免されて関東に向かう途中、善光寺を訪れ、兄弟弟子であった苅萱道心の寺(西光寺)に50日間逗留した。親鸞は1日に一体、不二の名号を書き、また刈萱道心とともに霊峰戸隠山に登り、両界山で阿弥陀三尊の像を合作したという。[4] 建保2年(1214年)、父の往生を悟った石童丸は西光寺へ。父の遺志を継いでこの寺に住し、2年後入寂した。ここまでは伝承である。 永和2年(1376年)、学圓上人が荒廃していた寺内を整理、本堂を建て、西光寺を復興した[5]。 明和6年(1769年)、佐久郡の両岡部・清水の三氏が、永代供養料として七反七畝余の土地を寄進し、寺内での常念仏を復興した[6]。 延宝5年(1677年) - 安永8年(1779年)、この100年ほどの間に10回ほど出開帳(自ら出向いて開帳すること)が行われた。「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」を持参し、出開帳先の社寺などで絵解きを行った。[7] 宝永元年(1704年)松代藩の家老職にあった小山田平太夫はこの西光寺を宿舎と定め、幕府の命により善光寺本堂復興の工事をスタート。宝永4年(1707年)に本堂は完成。その後、善光寺仮堂が西光寺に寄進され、本堂となった。[8] 明治4年(1871年)、「長野石炭油会社」を設立した石坂周造が、境内に日本で最初の石油精製所を置く。1875年(明治8年)に道路を挟んだ南石堂町に移設するまでこの場所にあった。[9] 本堂が1875年(明治8年)に老朽化のため取り壊され、開山堂を本堂とする。その後、1938年(昭和13年)の建替えを経て今日に至る。[10] 昭和40年代ころ、住職夫人が、かるかや親子「御絵伝」(江戸前期作)の説明を開始。その後、さらに江戸中期作の御絵伝が発見され、1989年(平成元年)に修復、開眼供養し、2幅を一貫した「御絵伝」として絵解きを行っている。[11] 伽藍
宝物
交通アクセス寺院周辺脚注
参考文献関連項目
外部リンク |
Portal di Ensiklopedia Dunia