被爆ピアノ(ひばくピアノ)は、1945年8月の日本への原子爆弾投下によって被爆したピアノ。
概要
1991年の湾岸戦争を契機として、音楽を通じた平和・環境活動を開始したジャズピアニスト河野康弘が、日本には山の木を伐採してつくられたピアノが約450万台眠っていることを知り、古いピアノの再利用が自然との共生と考え、1992年からピアノの再利用活動を開始した。
河野は、1994年ころから広島へ行くようになり、原爆のこと、平和のことを沢山の方に考えてほしいと考え、原爆ドーム前でのコンサート開催を構想する。そして「広島にはきっと被曝ピアノが眠っているのではないか」と考え、被爆したであろうピアノを探し始める[2]。その後、呉市の中学校で被曝したピアノの提供を受け、矢川光則に整備を依頼。1997年8月6日、8:10より広島現代美術館で被爆ピアノによる演奏を行う。これが被爆ピアノの始めての演奏となった[3]。翌1998年8月5日には、原爆ドーム元保川対岸ステージ「地球ハーモニーコンサート」で矢川光則が発見した被曝ピアノ2台で演奏した[4]。
2016年時点で広島市に9台・長崎市に1台・仙台市に1台合計11台が現存する[5]。うち仙台のものは広島で被爆した[6]ことから広島市への原子爆弾投下によるものが10台、長崎市への原子爆弾投下によるものが1台になる。いくつかは再生され演奏活動を続け、2017年ノーベル平和賞コンサートでその存在が世界的に知られるようになる[7]。なお矢川は2018年時点で「新たな被爆ピアノが出てくることはもうないだろう」とコメントしている[8]。
現存
広島
1
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(呼称なし) |
製造年不明のアップライトピアノ
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2 |
明子さんのピアノ
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1926年エリントン(ボールドウィン製)アップライトピアノ[10]。
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- 所有者は同年に生まれた帰米二世であり、アメリカで生まれた際に両親が購入し帰国時に持ち込んだ[10]。
- 爆心地から約2.5kmの三滝町の民家で被爆[11]。所有者は爆心地から約1kmのところで被爆し、翌8月7日に亡くなっている[11]。
- 戦後両親が保管、2005年に社団法人HOPEプロジェクトへ託され、演奏活動が行われていた[11]。2020年から平和記念公園レストハウスに常設展示される[11]。
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以下の6台は河野と矢川の活動によって再生されたもの[12][13]。2001年、矢川が広島県内で演奏活動を開始、2005年から全国で活動を始めている[14]。
3 |
ミサコのピアノ(千田町ピアノ)
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1932年(昭和7年)ヤマハ製アップライトピアノ[12][15]。
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4 |
カズコのピアノ(段原ピアノ)
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製造年度不明のホルゲル(HORUGEL(ドイツ))製アップライトピアノ[12]。
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- 爆心地から約2.6kmの段原の民家で被爆。当時所有者と同地で一緒に被爆している。
- 2009年に所有者から矢川へ託された[12][15]。
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5 |
宇品ピアノ
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1938年(昭和13年)ヤマハ製アップライトピアノ[12][15]。
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- 爆心地から約3kmの宇品の民家で被爆。
- 1998年に被爆者団体から矢川へ託された[12][15]。
- 2017年ノーベル平和賞コンサートで用いられた[1]。
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6 |
舟入ピアノ
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1920年(大正9年)ヤマハ製アップライトピアノ[12]
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7 |
グランドピアノ
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1937年(昭和12年)ヤマハ製セミコンサートグランドピアノ[12]。
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8 |
牛田ピアノ
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製造年度不明のモルゲンスターン(国産ブランド)アップライトピアノ[12]。
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長崎
1
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(呼称なし) |
製造年不明のヤマハ製アップライトピアノ[18]。
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- 爆心地から2.8kmにあった民家で被爆、爆風で飛散したガラス片が刺さった跡が残る[18]。
- 終戦後も所有者が用いていたが使わなくなったため、1984年に長崎原爆資料館へ寄贈された[18]。
- 2006年、長崎資料館の企画展で一度展示されたが、現在は収蔵庫に保管されている[18]。広島のものと同様に修復され利用可能であるとされるが、寄贈された原爆資料は現状保存が前提であるため、そのままの状態となっている[18]。
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仙台
1
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(呼称なし) |
製造年度不明のアップライトピアノ
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- 1933年、所有者が母から買ってもらう。結婚により広島に在住、ピアノは夫の実家に置いていた。爆心地から3km(4kmとも)で被爆する[6][19]。
- 後に転居するも、その際ピアノも持参した。2003年、仙台市内の工房に修理に出し、再生された[6][19]。
- 現在も個人が所有[6][19]。
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メディア
- 書籍
- 楽曲
- 映画
脚注
関連項目
外部リンク