セルゲイ・パルチコフ
セルゲイ・パルチコフ(露: Сергей Пальчиков、1893年 - 1969年)は、ロシア・メンゼリンスク生まれの教育者。白系ロシア人。被爆バイオリンの元所有者。 来歴1893年メンゼリンスクで貴族の家系に生まれる[1]。一家は音楽の造詣が深く、セルゲイは4歳からバイオリンを始めている[1]。カザン大学法学部卒業[1]。語学が堪能で、数カ国語に精通した[1]。 第一次世界大戦では砲兵隊士官として従軍、1917年ロシア革命では白軍将校として参加した(白系ロシア人)[1][2]。白軍は劣勢になりセルゲイは東へ敗走、その途中で貴族出身のアレクサンドラと出会い1920年結婚、1921年ウラジオストクで長女カレリアが生まれる[1]。1922年ウラジオストクから日本へ亡命[注 1]、1923年(大正12年)2月から広島に定住する[1]。多くの白系ロシア人は横浜か神戸に定住する中、パルチコフ一家が広島に定住した理由は“文化的雰囲気が気に入ったため”とされている[1]。1924年(大正13年)長男ニコライが生まれる[3]。 ただ生活は困窮し、セルゲイは愛用のバイオリンを質に出すことを決める[1]。セルゲイは質屋へ向かっていた所、日進館[注 2]館主に呼び止められ、その場で演奏すると、すぐにその腕を認めた館主により日進館でサイレント映画の伴奏者として雇われることになった[3]。友人の白系ロシア人数人と弦楽アンサンブルを組織し伴奏していた[3]。薄田太郎『がんす横丁』に「ルバシカ姿の白系露人三名が参加して、益々好評を博した」「洗練された演奏ぶりが呼物となり」とある[2]。 そこへ、セルゲイの評判を聞きつけた広島女学校(現広島女学院)教師がN・B・ゲーンス校長に推薦、1926年(大正15年)セルゲイは広島女学校音楽教師に採用された[3]。そして女学院生徒による弦楽オーケストラを編成[注 3]、同年6月には音楽会を開催した[3]。またセルゲイは女学校の近くの上流川町(現中区幟町)の自宅[注 4]で個人向けに1ヶ月20円でバイオリン指導、あるいは英語指導を行い、更に広島陸軍幼年学校で外国語指導をしていた[3][5][2]。セルゲイの指導はとても厳しく[3]、当時生徒だった人物によると、「いっとー、にーとー、さんとー」と外国なまりの日本語で拍子を取っていた[6]、「そんな音は駄目ねー」と何十回も弾き直しを命じられた[7]、“カタカタカタ! 激しく先生の棒が木の譜面台の縁を叩く。やり直し。永久に全部は歌えないのではないかと思われるほど”[2]、だったという。年に1回開かれた広島女学校音楽教師演奏会ではセルゲイの演奏目当てに大勢の客が詰めかけたという[2]。1933年(昭和8年)次男デビッドが生まれる[3]。長男ニコライの回想によると、小学生時代(おおよそ1936年まで)は何一つ差別は受けなかったという[3]。 1940年(昭和15年)日米関係悪化に伴い広島女学校のアメリカ人教師や宣教師が強制帰国させられる[8]。セルゲイは日本へ残るか(ソ連以外の)他国へ移るか悩み、くじびきの末、留まることを決断する[8]。当時長女カレリアと長男ニコライは神戸のカナディアン・アカデミーに在学、1940年長男ニコライはアメリカの大学進学を目指して渡米し長女カレリアは広島に戻り英語教師となった[8]。 1941年(昭和16年)12月太平洋戦争勃発。アメリカにいた長男ニコライとは音信不通となる[8]。ある日セルゲイは知人に「家に北海道のチーズがある」と話したところ、“家に北海道の地図を隠し持っている”という噂が広まり、スパイ容疑で連行される[8]。厳しい尋問の末、嫌疑が晴れ釈放されたが、体を壊したセルゲイは広島女学校の教師を続けることができなくなり、更に自宅は軍に接収されたため、パルチコフ一家は牛田旭(現東区)で借家住まいすることになった[8][5]。 1945年(昭和20年)8月6日、セルゲイ・妻アレキサンドラ・長女カレリアは家の中にいた[8]。次男デビットが“飛行機がきた”と叫びながら家に入った瞬間、広島市への原子爆弾投下[8]。牛田旭の家は爆心地から約2.5kmに位置した[5]。家の壁が崩れ家族全員が下敷きになったが、長女カレリアが頭部に軽い怪我を負ったのみで他は無事だった[9]。パルチコフ一家は身の回りのわずかな物とバイオリンを持って、市内から避難してきた被爆者と共に郊外へ避難していった[9]。病弱な妻アレキサンドラを連れて長く歩くことができず、セルゲイは食べ物を求めて一軒の家を訪ねると、そのマツモト氏はパルチコフ一家に食事を与え数日間宿泊させた[9]。マツモト家には見ず知らずの10家族が身を寄せていたが、パルチコフ一家が外国人であることを誰も気にせず一緒に助けあっていたという[9]。 終戦後、パルチコフ一家は他の白系ロシア人と共に帝釈峡[注 5]に送られ旅館“大黒屋”に2ヶ月ほど留め置かれた[9]。 1945年9月のある日、セルゲイは知人を探すため広島市内に入ると、米軍で語学兵となっていた長男ニコライと奇跡的な再会を果たす[12]。パルチコフ一家は東京で暮らすことになり、セルゲイと長女カレリアは長男ニコライの計らいでGHQで働くことになった[12]。 1951年セルゲイと妻アレキサンドラは渡米、セルゲイはカリフォルニア州にあった陸軍語学学校(のちのアメリカ国防総省語学学校)に勤め、冷戦下で需要が高まった同校のロシア語教育プログラムの創設に携わり、米兵にロシア語を指導した[13]。 退役後はバイオリン指導や、趣味の写真に生きた[13]。孫の証言によると、セルゲイは広島での暮らしについてはよく話していたが被爆体験について話すことは殆ど無かったという[5]。1969年死去[13]。76歳没[13]。1986年長女カレリアの手で、セルゲイと妻アレキサンドラは原爆死没者名簿に登録された[10][14]。 備考
脚注注釈
出典
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