藤縄善朗
藤縄 善朗(ふじなわ よしろう、1952年(昭和27年)6月30日[1] - )は、日本の政治家。元埼玉県鶴ヶ島市長(3期)。 来歴埼玉県鶴ヶ島村(現鶴ヶ島市)生まれ。埼玉県立川越高等学校に入学するも、制服廃止運動や70年安保闘争に参加し、中退。大学入学資格検定試験を経て國學院大學 文学部に入学。在学中も一時学生運動に関与するが、後に折口信夫の民俗学と日本文学に傾倒する。 1978年、大学を卒業し、鶴ヶ島町役場に就職した。鶴ヶ島町役場及び鶴ヶ島市役所では長く教育委員会町史編纂室で地方史の研究、編纂に取り組んだ。同じ時期に、隣町の日高町(現日高市)町史編纂室の職員として後に衆議院議員となった塩川鉄也がいた。その後、議会事務局、政策推進室、区画整理課、老人福祉センター、埼玉西部環境保全組合等に勤務する。 2001年、鶴ヶ島市役所を退職し、鶴ヶ島市長選挙に無所属で出馬したが、自民・公明が推薦する現職の品川義雄鶴ヶ島市長に328票の僅差で惜敗した。落選後は、来るべき超高齢社会を見据えて、坂戸市や鶴ヶ島市で介護事業所(認知症高齢者グループホーム)を設立し、施設長として介護現場で業務に当たった。 2005年、再び鶴ヶ島市長選挙に出馬し、初当選を果たした。2009年の鶴ヶ島市長選では、民主党が擁立した対立候補にダブルスコアの大差をつけ、再選。2013年の市長選挙では無投票で三選。2017年の選挙でも他に出馬の動きがなく無投票四選と思われたが、4期は本意ではないとの理由で立候補しなかった。 市長在任中は、都市計画道路共栄一本松線の全線開通、都市計画事業である一本松区画整理事業の大幅な見直し、埼玉県農業大学校の移転と跡地開発、建築家の藤村龍至氏と進めた鶴ヶ島プロジェクト、超高齢社会の地域モデルとなる地域支え合い協議会の設立など、先進的な取り組みを行なった。疲弊した財政の再建、職員数の削減と歪な年齢構成の是正などの困難だが重要な改革を実現した。 2017年には、2020年に予定されていた東京オリンピックにおいて、鶴ヶ島市はミャンマーのホストタウンに登録された。これにより、在日ミャンマー人の間で鶴ヶ島市は広く知られるようになった。 2018年4月に城西短期大学の客員教授に就任し、日本文化やまちづくりなどの教科を教える。ゼミでは、学生とミャンマー子ども支援プロジェクトを展開し、2019年〜2020年には、サッカーボールとクラウドファンディング などで集めた支援金の寄付を行なった。2020年〜2021年には、学校建設とコロナ禍に伴う緊急食糧支援を行う計画とのことである。2021年に日本ミャンマー友好協会の会長に就任した。 人物
脚注
外部リンク
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