藤森栄一藤森 栄一(ふじもり えいいち、1911年(明治44年)8月15日 - 1973年12月19日)は、日本の考古学者、諏訪考古学研究所所長、元長野県考古学会[1]会長である。 経歴1911年長野県諏訪郡上諏訪町(現諏訪市)に生まれ、旧制諏訪中学校在学中に考古学に目覚め、地理学教師三沢勝衛の指導を受けた。1929年に卒業後、上京、森本六爾の主宰する東京考古学会に入会、本格的に考古学の研究を始めた。森本六爾の死後は、杉原荘介、小林行雄らとともに東京考古学会の運営に携わった。 1936年東京で葦牙書房(あしかびしょぼう)を興し、同社で森本六爾の遺稿集である「日本農耕文化の起源」を出版した。 1943年出征、1946年復員の後、郷里諏訪に帰り、古書店「あしかび書房」を経営しながら、諏訪考古学研究所を立ち上げ、諏訪地方の遺跡を中心に発掘調査に当った。一方、諏訪神社研究、民俗学研究などにもかかわり、多くの論文、著書を発表した。これらの活動によって戸沢充則、松沢亜生、桐原健、宮坂光昭、武藤雄六(井戸尻考古館初代館長)ら数多い弟子を育成した。 また、考古学随筆集「かもしかみち」を出版。在野の考古学者として、考古学をやさしく解説した書物、調査を基本に推理と想像を働かせた多くの読み物を出版し、若い考古学者から一般愛好家まで考古学の興味を起こさせるため大きな貢献をした。 藤森は八ヶ岳山麓地域において打製石斧や磨石、石皿の出土が多いことに着目し、1950年に富士見町の井戸尻遺跡の調査結果を踏まえて提唱したのが「縄文農耕[4]論」であり、縄文中期に中部地方高地で特異的に出土する有孔鍔付土器の使用目的については種子の貯蔵説を主張した。藤森の縄文農耕論の特徴は、稲籾などの自然遺物に頼ることなく、考古学の正道といわれる人工遺物の存在によって農耕を証明しようとしたことにある。(当時の一般的な縄文時代観では縄文時代の生業は狩猟採集のみに頼るものであったと考えられていたため縄文農耕説は存命中に評価を受けなかったが、近年はクリやドングリな堅果の管理栽培や雑穀栽培の可能性も指摘され、縄文遺跡から栽培作物やイネの遺物の出土・検出が相次いでおり、藤森の先見性が再評価されている。) 長野県考古学会会長を務めた。また、山岳有料道路、ビーナスラインの建設に際し、医師の青木正博らと旧御射山遺跡(もとみさやまいせき)や霧ヶ峰の自然保護運動に立ち上がったが、この経過は旧制諏訪中学の一級後輩で共に三沢勝衛に学んだ新田次郎著の小説「霧の子孫たち」に取り上げられている。 1973年に62歳で死去。死後、藤森の業績を記念して、民間の考古学研究者に対して与えられる「藤森栄一賞」が設けられた。また、現在も藤森栄一の志を継ぐ人々が諏訪考古学研究会を組織し、活発な活動が続けられている。 孫に群馬大学教授の藤森健太郎や北相木村考古博物館学芸員、考古学者の藤森英二[5]がいる。 アニメーション界の巨匠、宮崎駿が自身の著書『出発点 1979~1996』で世界観を形成するにあたって、藤森栄一の縄文農耕論に深く影響を受けたことが265頁のインタビュー記事に記されている [6]。 生前に収集した資料は諏訪市博物館に寄贈され、「藤森栄一コーナー」として展示されている。 没後50年にあたる2023年、諏訪市博物館で11月18日から12月24日まで企画展「没後50年 考古学者 藤森栄一と諏訪の考古学」が開催された[7]。 年譜
著書
共編著
共著
関連著作
外部リンク脚注
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