森本六爾
森本 六爾(もりもと ろくじ[1]、1903年〈明治36年〉3月2日 - 1936年〈昭和11年〉1月22日)は、大正時代から昭和初期にかけての日本の考古学者[1]。 人物・来歴奈良県磯城郡織田村大泉(現:桜井市)出身。1920年に旧制奈良県立畝傍中学校(現・奈良県立畝傍高等学校)を卒業する。奈良県磯城郡三輪尋常高等小学校の代用教員となり、香久山尋常高等小学校や生駒郡都跡尋常高等小学校でも代用教員を務めた。[要出典]1924年に上京して東京高等師範学校の校長であった三宅米吉の下で、歴史科に副手として勤務した[2]。同年に東京考古学会を設立した[1]。1929年、三宅の死去に伴い副手を辞任。1935年に夫人を結核で亡くし、翌年に神奈川県鎌倉市極楽寺の仮寓で同じく結核により32年の生涯を閉じた[3]。死の直前に面会した藤森栄一は、『二粒の籾』で彼の最後の様子を記している[要文献特定詳細情報]。墓所は桜井市の極楽寺[要出典]。 甕棺の研究や[4]や銅鐸の型式分類を行い[5]、弥生期区分において稲作が開始されたことを提唱する[要出典]など、アマチュアでありながらも日本の考古学の発展に大きく貢献した。生涯に約200本の論文を発表したほか、全国各地の遺跡に出かけて出土品を並べて発掘時の状況を再現した写真を撮ったり、現地関係者に話を聞いたりした[1]。土器片や写真乾板、考古学者のほか政治家、軍人、財界人らの名刺、考古学者らと交わした書簡、妻子を気遣う手紙類など膨大な遺品は、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館が遺族から借り受けて整理や一部の刊行を進めている[1]。 ただし、弥生文化が稲作を行ったことについては、中山平次郎、山内清男、鳥居龍蔵などの先行研究の成果を参考に組み立てたものであった。これは当時も八幡一郎などによっても指摘されている[6]。高校までの教科書に名前が出てくることは稀であるが、考古学に携わる者の間では「考古学の鬼」という異名[1]とともに有数の知名度を誇る人物である。藤森栄一、小林行雄、杉原荘介らが弟子として知られている。 松本清張の短編小説『断碑』の主人公、木村卓治のモデルとされている[7]。 著作単著
編集共著
共編
関係資料集
脚注
参考文献
外部リンク |