藤本匠
藤本 匠(ふじもと たくみ、1962年2月9日 - [2])は、ばんえい競馬の騎手[2]。北海道生まれ[1]。2012年にばんえい競馬の史上最多となる3,300勝を達成した[3]。2017年には4,000勝を達成している[4]。 厩務員時代子供のころは札幌で過ごし、馬を飼っていた旭川の叔父のところへ、冬休みなどの機会に馬の世話を手伝っていた[1]。中学校を卒業後、馬主でもあった叔父の推薦により本沢政一厩舎へ厩務員として入る[1][5]。 厩舎へ入った当初は特段の馬好きという志向もなく「叔父が勧めるから仕方なく」厩舎の仕事をこなしていったが[5]、3年を経てオープン級の実力馬に触れる機会が増えてゆくと勝負に対しての実感が湧くようになり、自分が普段扱っている馬に対しても感情移入してゆくようになる[5]。そうして厩務員として働いているさなか、周囲は藤本に対して騎手への転身を勧めるようになる[1][5]。しかし当の藤本は「おれも金山さんみたいな騎手になりたいなと思ったけれど、騎手試験の筆記をパスする自信がなかったんだ」と筆記試験に対しての不安があった[6]。そこで、当時先輩厩務員であった門脇税(元騎手・元調教師)が筆記試験対策を教える形で藤本を支援した[6]。その甲斐あって2回目で騎手合格となり[1]、6年間の厩務員生活ののち、騎手としての道を歩み始めることとなった[1]。 騎手時代新人騎手時代騎手デビューして4年目には年間100勝ペースに達したが[7]、その頃になると夜の街で飲み歩くなどして朝の調教へ出ない事が多くなる[7]。その影響は年間勝利数が70勝ペースまで落ち込む形で現れ[5]、騎乗依頼も減って馬主の関心が藤本から離れてゆく[7]。藤本はこの頃の事を「慢心が招いた結果だが、自分がふがいなかった」と振り返る[7]。こうした事があり、藤本は競馬への姿勢を改めるようになった。特に早朝の「攻め馬」への参加は欠かさないようになった[5]。 繊細な性格「ベッドの下にほこりがたまっていると、落ち着かなくて自分で掃除機をかけてしまう[8]」と語る藤本は、休日でもそのまま休むよりは掃除をこまめに行うなど自分で環境を整えるタイプである[5]。その性格の一端は競馬にも表れており、調教の段階から極力自らの手で馬に触れる事を信条としている[5][9]。他の騎手から「自分でなんでもやろうとしたらだめだ」と言われた事もあるが[5]、藤本は馬の管理を他人任せにして事故などにつながった場合に悔いが残ると考えており[5]、自らの手を忙しく動かして競走生活を送っている。 「騎乗機会」の価値観「20代のころは、がむしゃらに勝ちをつかんでいった。[6]」と語る藤本は「でも30代になったとき、長く騎手を続けていくためには目先の1勝だけでなく、たとえ負けても馬主と信頼関係をつくっていくことが大切だと気がついたんだ[6]。」と勝利へのこだわりもさることながら、そもそも「騎乗機会」を大切にする事が騎手として何よりも肝要であると気付く。 3,300勝達成の際には、通算騎乗回数がばんえい競馬で最多となる25,300回以上に達した事にも触れ「記録達成もうれしいですが、勝数よりも、自分を信頼してくれ、ばんえい競馬で一番多い25,300回以上騎乗させてくれたことを誇りに思います。」と藤本は締めくくった[10]。 「ミスターばんえい」との接点藤本の行く先には常に「ミスターばんえい」こと金山明彦が映っていた。厩務員として勤め始めた先の本沢厩舎では、当時すでに第一線級の騎手であった金山から馬の扱い方や騎乗方法などばんえい競馬に関する様々な手ほどきを受ける事になる[6]。藤本はこの頃の事を「厩務(きゅうむ)員時代の一番の思い出は、スター騎手だった金山さんから馬のさわり方や騎乗方法など、いろいろ教えてもらったことかな[6]」と振り返る。 そもそも「騎手になる気はなかった」藤本が騎手を目指し出したのは、金山に勧められたのも要因の一つである[5]。騎手となってからは更に金山からの影響は強くなり、金山が騎乗していない馬へどんどん騎乗させてもらう形で新人にして500回もの騎乗機会をもらう形で経験を積んでいった[1]。本人は金山への印象を「聞けば何でも教えてくれた。でもまねはできなかった」と語る[11]。 金山から見れば「やんちゃな若者」であった藤本であったが[11]、勝利を重ねてゆく内に金山からも認められる程の騎手となる。3,300勝記録達成が見えてくる頃になると「匠なら、きっとおれの記録を塗り替えられる」と期待を寄せられ[6]、3,300勝記録を達成した際には金山が「若い時から弟子みたいな存在だったので、『おめでとう』と言いたい。看板ジョッキーとして今後の記録更新に期待している[12]」と、藤本がばんえいの「看板騎手」となった事を喜んだ。 騎手経歴
脚注出典
外部リンク
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