藤川三之祐
藤川 三之祐(ふじかわ さんのすけ[1]、1889年3月22日 - 1943年4月20日[2])は、日本の俳優である[1][3][4]。 人物・来歴1889年(明治22年)3月22日、東京府東京市浅草区(現在の東京都台東区浅草)に生まれる[1]。1912年 - 1922年の間に、浅草近くの日活向島撮影所の新派俳優「藤川 三之助」(本名・平田三彌)が活躍していたが、この人物は日活を退社しており、まったくの別人である[1]。 映画界に入る前は、舞台で活動をしていたといい、芹川政一の東京シネマ商会等の東京の映画商社で、宣伝映画に出演していたこともあるという[1]。 1933年(昭和8年)の終わり、日活太秦撮影所に入社、伊藤大輔監督の正月映画『女人曼陀羅 第一篇』、同じく正月第2弾『女人曼陀羅 第二篇』に車善七役で出演して、満44歳で映画界にデビューした[1][3]。 1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合によって大映が設立され、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、藤川は同社演技部に継続入社する[1][2][3]。第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)5月13日に公開された、伊藤大輔監督の『二刀流開眼』が記録に残る最後の出演作品である[1][3]。以後の消息は不明[1][3]とされていたが、『映画旬報』1943年(昭和18年)5月11日号にて、去る4月20日午後8時に数え年60歳[5]で死去したと報じられている[2]。告別式は同年4月22日午前9時に、京都府京都市右京区太秦多藪町の自宅で執行された[2]。 フィルモグラフィすべてクレジットは「出演」である[3][4]。役名のわかるものは公開日の右側に記し[3][4]、東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6]。同センター等に所蔵されていないものは、ほぼ現存しないフィルムである。 日活京都撮影所![]() 特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」あるいは「日活太秦撮影所」、配給は「日活」である[3]。
大映京都撮影所特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、配給は「映画配給社」である[3]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |
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