藤原英幸
藤原 英幸(ふじわら ひでゆき、1970年3月27日 - )は、埼玉県出身の元騎手・調教助手。 来歴1988年に競馬学校4期生として美浦・仲住芳雄厩舎からデビューし、内田浩一・岡潤一郎・岸滋彦・千田輝彦・菊沢隆徳と同期となる。 1年目の1988年は3月5日の東京第2競走4歳未勝利・ライジングイースト(12頭中4着)で初騎乗[1]を果たし、5月1日の新潟第4競走4歳未出走・ダイシンピジョンで初勝利[2]を挙げる[3]。6月11日の東京で初の1日2勝、翌12日の東京でも勝って初の2日連続勝利を挙げる[4]など、初年度から2桁勝利の15勝[5]をマークし、関東の新人賞に当たる民放競馬記者クラブ賞を受賞[6]。 2年目の1989年には同年から始まった阪神のヤングジョッキーズステークス[7]でローヤルドラゴンに騎乗し、1年先輩の寺島祐治・武豊に次ぐ3着に入った[8]。重賞初騎乗となった新潟記念でもチョウカイエクセルで3着[9]に入り、新潟戦では春夏共に5勝の計10勝[10] [11]を挙げるなど、2年連続2桁で自己最多の24勝[5]をマーク。 3年目の1990年にはクイーンステークスでヘイアンダームに騎乗しキョウエイタップに先着する3着[12]に入り、ブルーベイブリッジでテレビ東京賞3歳牝馬ステークスを制し管理する山田要一調教師と共に唯一の重賞勝利[3] [9] [13] [14]を挙げ、3年連続2桁勝利であると同時に2年連続で最後の20勝台となる22勝[5]をマーク。 1991年は6勝に終わったが、1992年には2年ぶりの2桁となる16勝を挙げ、1994年まで3年連続2桁勝利を記録[5]。 1992年にはアズマハンター産駒の関西馬ユーセイフェアリーの関東遠征時に2度騎乗し、中山牝馬ステークスではスカーレットブーケの2着、牡馬相手のエプソムカップでも4着と重賞で好走[15]。 1994年1月31日の東京第2競走サラ4歳未勝利・ケイアイトップで通算100勝[16]を達成し、1995年には成宮明光厩舎に移籍。 1995年3月26日の中山第4競走4歳未勝利ではユーワキングでマイケル・ロバーツ騎乗のサマーサスピションから9馬身差2着[17]に入り、10月7日の新潟第8競走4歳未勝利を18頭中15番人気のテイエムファミリーで勝利し単勝・枠連万馬券[18]の波乱を呼んだ。 1996年には仲住厩舎に復帰し、1月27日の小倉第8競走4歳以上500万下では16頭中12番人気のピンクタイフーンで逃げ切った8番人気グリーンパラダイスの2着に入り、枠連・馬連万馬券を演出[19]。3月9日の中京第8競走4歳以上500万下では16頭中11番人気のオギタイショウで8番人気ホークブレーヴとハナ差2着に入って枠連36560円[20]の波乱を呼び、5月19日の東京第9競走牡丹賞ではケイアイグローリーでクロカミの3着[21]に入った。10月26日の新潟第8競走4歳未勝利ではマイネルトムで3着[22]であったが、最後の直線で2着のポットベルーシーに騎乗した大塚栄三郎[22]と鍔迫り合いになり、レース後には検量室で大塚と揉み合いになる[23]。大塚は施行規定第126条第20号により、翌27日から11月9日まで実効4日間の騎乗停止となった[23]。同年は2年ぶりの2桁となる10勝をマークしたが、自身最後の2桁勝利となった[5]。 1997年からはフリーとなり、同年には天皇賞(秋)・マイネルブリッジ(16頭中7着)でGI初騎乗[9]を果たし、福島記念ではヤシマソブリン・アロハドリームを抑えてテイエムオオアラシの3着[24]に入った。 1998年にはファンネルマークで京都金杯をミッドナイトベット・エリモダンディーに次ぐ4着[25]に入ったほか、ディヴァインライトで新馬→500万下を2連勝し、重賞初出走の弥生賞ではキングヘイロー・スペシャルウィーク・セイウンスカイの三強に次ぐ4番人気に支持されるが5着[26]で降板[27]。 1999年には中野栄治厩舎のトロットスターで中日スポーツ賞4歳ステークスを9番人気ながら2着に好走し[28]、2000年にはトロットスターと同厩で父メジロマックイーン・母父カツラギエースのタイムフェアレディで新馬を10頭中9番人気の低評価を覆して勝ち、ファンタジーステークスでは16頭中11番人気ながら関東馬最先着でタシロスプリングの5着[29]、福島3歳ステークスではテンシノキセキの4着に入った[30]。 2001年には父ウイニングチケット、母父バンブーアトラス・母母テイタニヤのノアパンチ[31]で新馬を11頭中10番人気ながら勝利し、単勝・枠連・馬連・ワイド万馬券の波乱となった[32]。 2004年には菊川正達厩舎所属となり、3月13日の中京第11競走知立特別でトロットスターの弟マキシマムスピード[33]に騎乗し最後の勝利[34]を挙げる。11月7日の東京第2競走2歳未勝利・ヨシノボンボン(12頭中11着)が最後の騎乗[35]となり、12月31日付で現役を引退[36]。 騎手成績
脚注
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