藤原良頼
藤原 良頼(ふじわら の よしより)は、平安時代中期の公卿。藤原北家中関白家、中納言・藤原隆家の長男。官位は正三位・権中納言。 経歴三条朝末の長和4年(1015年)従五位下に叙爵し、後一条朝初頭の長和6年(1017年)正月に侍従に任ぜられる。同年4月に右衛門佐に遷ると、寛仁2年(1018年)右近衛少将、寛仁3年(1019年)従五位上、治安2年(1022年)正五位下、万寿元年(1024年)従四位下、万寿3年(1026年)左近衛少将と武官を務めながら昇進する。しかしこの間、4歳下の異母弟・経輔が先に治安2年(1022年)従四位下に叙せられており、後一条朝では昇進面でその後塵を拝すことになる。 万寿4年(1027年)春宮権亮に任ぜられ、後一条朝の後半は春宮・敦良親王にも仕えるとともに、万寿5年(1028年)従四位上、長元2年(1029年)右近衛中将、長元4年(1031年)正四位下、長元6年(1033年)左近衛中将と引き続き近衛次将を務めながら昇進を重ねた。 長元9年(1036年)4月に後朱雀天皇践祚と同時に蔵人頭となる。既に後一条朝末に蔵人頭を務めていた弟・経輔に2年遅れての補任であったが、同年12月に良頼は蔵人頭在任8ヶ月足らずで参議に任ぜられ公卿に列し、後任の蔵人頭に経輔が再任されている。参議任官後も左近衛中将を兼ね、後朱雀朝では長元10年(1037年)従三位、長久3年(1042年)正三位と経輔に先んじて昇進し、後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)経輔と同時に権中納言に昇任した。 永承3年(1048年)6月4日薨去。享年47。最終官位は権中納言正三位兼右兵衛督。 官歴注記のないものは『公卿補任』による。
系譜源基平に嫁いだ娘が生んだ外孫源基子が後三条天皇の寵愛を受けて、実仁親王・輔仁親王を生み、一時有力な皇位継承候補者となった。 脚注参考文献 |
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