藤原範永
藤原 範永(ふじわら の のりなが)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。和歌六人党の一人。藤原北家長良流、内匠頭・藤原中清(仲清)の子。官位は正四位下・摂津守。 経歴後一条朝初頭の長和5年(1016年)六位蔵人に補せられる。修理権亮・式部大丞を経て、寛仁3年(1019年)従五位下に叙爵し、翌寛仁4年(1020年)甲斐権守に任せられる。治安3年(1023年)春宮・敦良親王の春宮少進となるが、のち伯耆守を兼ね、長元3年(1030年)治国の労により従五位上に叙せられた。翌長元4年(1031年)正五位下。 長元9年(1036年)4月に敦良親王が即位(後朱雀天皇)すると、同年7月に範永は従四位下に昇叙される。翌長元10年(1037年)尾張守として地方官に転じ、長久4年(1043年)安福殿造営の労により従四位上に叙せられた。 後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)大膳大夫として京官に復す。天喜元年(1053年)但馬守に任ぜられると、康平5年(1062年)阿波守、康平8年(1065年)摂津守と後冷泉朝の中盤以降は専ら受領を務め、この間の天喜4年(1056年)正四位下に至る。また、康平4年(1061年)には太政大臣・藤原頼通の七十賀に参会している。 歌人として受領層の歌人集団・和歌六人党では指導的立場にあり、相模・能因・橘俊綱を始め多くの歌人との交流が知られる。長久2年(1041年)『弘徽殿女御歌合』、永承5年(1050年)6月の『加賀院歌合』、天喜4年(1056年)『皇后宮寛子春秋歌合』等に参加。康平6年(1063年)『公基朝臣歌合』では判者を務めた。『後拾遺和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に計30首が入集[1]。家集『範永朝臣集』がある。 官歴注記のないものは『範永朝臣集』による。
系譜後代、一子・良綱の子孫が高倉家、堀河家、樋口家として堂上家に列した。 脚注出典外部リンク |
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