藤原教長

 
藤原 教長
時代 平安時代後期 - 末期
生誕 天仁2年(1109年
死没 不明
改名 文殊(幼名)→教長→観蓮(法名)
官位 正三位参議
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家難波家
父母 父:藤原忠教、母:源俊明の娘
兄弟 忠基教長難波頼輔忠兼師教親忠有教教良、明源、基教、教仁、教智、教覚、寛敒、藤原通季
覚慶、玄長
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藤原 教長(ふじわら の のりなが)は、平安時代後期から末期にかけての公卿歌人藤原北家難波家飛鳥井家始祖、大納言藤原忠教の次男。官位正三位参議

経歴

元永2年12月(1120年1月)に元服し、従五位下叙爵左少将五位蔵人として崇徳天皇に近侍し、大治3年(1128年)に従四位下に叙せられる。 のち、右中将を経て、保延4年(1138年)に蔵人頭に任ぜられる。永治元年(1141年)10月、父・忠教の薨去に伴い官職を辞すが、12月には復任と共に参議に任ぜられ公卿に列した。

近衛朝でも累進して、久安5年(1149年)に正三位に至る。この間、議政官として右中将と丹波国越前国阿波国国司を兼ねた。

保元元年(1156年)に勃発した保元の乱に際しては、崇徳上皇・藤原頼長側に加担。『保元物語』では源為義に対して再三の説得工作を行い自軍に参加させるといった中心的な役割を担ったと描かれる(真偽は不明)。上皇方の敗北後は出家・投降して恭順の意を示したが赦されず、常陸国信太浮島(現在の茨城県稲敷市浮島)に配流された。

乱から6年後の応保2年(1162年)に都に召還され、高野山に入った。その後、安元年間(1175年 - 1177年)に鹿ケ谷の陰謀安元の大火といった大事件が相次いだ際には、崇徳や頼長を神霊として祀り、その祟りを鎮めることを主張したという。

人物

  • 崇徳朝の代表的歌人。出家後も仁安2年(1167年)の太皇太后宮亮経盛家歌合、治承2年(1178年)の別雷社歌合といった多くの歌合に出詠している。勅撰歌人として、『詞花和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に37首が採録されている[1]家集に『貧道集』があり、『詞花集』に対して『拾遺古今』(散佚)を編んだ。『古今和歌集』の注釈『古今集註』も著している。
  • 能書家としてもその名を知られ、藤原忠通の書の師範を務めたほどであり、藤原佐理の真書の書風を好んで書いたといわれる[2]。寺社の扁額を数多く手掛けたとされ[2]蓮華王院の門額が現存し、その書は京だけでなく田舎でも流行したという。書の口伝書に『才葉抄』がある。『今鏡』に藤原頼長藤原定信に対して、教長と当時能筆とされた[3]藤原朝隆のどちらが書の力量が勝っているかを問うたとの逸話があり[2]、当時教長と朝隆が双璧を為していたことが窺われる。『古事談』にはに渡った重源が、教長筆の和漢朗詠集を宋人に見せると感歎された、という逸話が見える。ただし、教長のかな古筆は後世、大甥・飛鳥井雅経伝称筆者として伝来している。これは、若年期の雅経が壮年期以降の教長の書を熱心に学んだため、両者が似ていたことが原因である。
  • 仏教への信仰心が篤く、殿上人として朝廷に仕えていた頃から道心があり、在俗の身ながらのような様子であったという[2]

真跡

官歴

※日付は旧暦

系譜

脚注

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ a b c d 今鏡』藤波の中 第五 水茎
  3. ^ 「権右中弁朝隆朝臣能書之誉冠絶于当世」(『台記』天養2年閏10月25日条)

出典

  • 竹鼻績 『今鏡 (中)』 講談社〈講談社学術文庫〉、1984年
  • 池田和臣 「今城切古今集と国宝源氏物語絵詞」『聚美』Vol.7、青月社、2013年、pp.118-121。ISBN 978-4-8109-1263-0