藤原正家
藤原 正家(ふじわら の まさいえ)は、平安時代後期の貴族・学者・歌人。藤原北家真夏流(日野家)、式部権大輔・藤原家経の長男。官位は正四位下・式部大輔。 経歴文章博士を務め、正四位下・式部権大輔にまで昇った学者である藤原家経の子として誕生。少年時代から神童の誉れ高く、『法華経』を1日に50部転読し、数万部を暗誦していたといわれる[1]。 対策に及第したのち、後冷泉朝にて六位蔵人・左衛門尉・大内記・越中守を経て康平4年(1061年)に右少弁に任官する。治暦元年(1065年)左少弁兼文章博士、治暦4年(1068年)正五位下、治暦5年(1069年)右中弁、延久2年(1070年)従四位下、延久4年(1072年)従四位上、承保2年(1075年)正四位下、承保4年(1077年)左中弁、承暦4年(1080年)右大弁と、後冷泉・後三条・白河の三朝20年以上に亘って弁官を務める。また、この間の承暦2年(1078年)蔵人頭にも任ぜられるが、まもなくこれを辞すなど、公卿の座を目前にするも昇進は叶わなかった。 応徳元年(1084年)若狭守として地方官に転じるが、寛治元年(1087年)には式部権大輔として堀河天皇の御読書始に際して侍読を務め、嘉保2年(1095年)式部大輔に任ぜられ、文人官僚の筆頭に至った。 人物後三条天皇・白河天皇の時代において大江匡房と並んで双璧の学者とされた[2]。儒学に優れていたことから「儒宗」と呼ばれ、さらには相人としての評判も高いなど[3][4]博学多才であった。 歌人でもあり、永承6年(1051年)の『侍臣歌合』を始めとして、『承暦二年内裏歌合』『嘉保元年前関白師実歌合』等に出詠、天仁元年(1108年)大嘗会では主基方の和歌の作者となった。『金葉和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に3首が入首[5]。また、漢詩文でも大江匡房に並ぶ程の才能であったといわれ、『本朝続文粋』に作品が残っている。 逸話『今鏡』には後三条天皇とその近臣である大江匡房・藤原実政との逸話の次に、以下のような正家との逸話を載せており[2]、正家が匡房・実政と並ぶ後三条天皇の近臣であったことが窺われる。
官歴注記のないものは『弁官補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注出典 |
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